家持が官人として勤め始めて直ぐに、藤原広嗣の乱が起こります。前述していますが、この頃には飢饉や旱魃、天然痘の流行など、繁栄を極める天平時代は、その足元から次第々々に崩壊のシナリオに呑み込まれ始めていました。
 そして、以後続いた政治的混乱のきっかけともなったのが、広嗣の乱です。

 詳しくは既に鏡神社や、長屋王、井上に関連して書いていますので割愛しますが、いずれにせよこれら政変や天変地異に抗うかのごとく、聖武天皇は大仏造立を発願します。そして、だからこそこれを少しでも早く成し遂げたい、とも願っていたのでしょうし、それ故に大仏造立に相応しい候補地と、権謀術数渦まく平城京を捨て、新しい清澄な都を求めていたのかも知れません。

 聖武は突然、東国行幸を敢行。辿ったルートは伊勢−美濃−近江で、時の右大臣・橘諸兄を筆頭に多くの官人たちが、もちろん家持も従駕し、こと彼は行く先々の仮宮で行幸恒例の国讃めや望郷の歌を詠みました。

 

 そして行幸の途中、広嗣逮捕・処刑の報が齎されます。けれども聖武は行幸をやめず、近江に続いて山背は恭仁へ。ここは、聖武が皇太子時代から、何度も行幸した場所で、どうやら聖武のお気に入りだったようです。だからなのでしょう。年の瀬も押し迫った日、聖武はこの恭仁への遷都と、新京造営の詔を出します。

 あまりに長くなりますので、この行幸で詠まれた家持の歌の引用は割愛させて戴きますが、それでも彼にとって初めてであった長期に及ぶ行程を「続日本紀」や「万葉集」の記述にある、日付だけでも追いかけて見ます。

 天平12年(740年)
  10月29日 平城京出発
  11月 2日 伊勢/河口到着
  11月 3日 藤原広嗣 逮捕の報到着
  11月 5日 同処刑の報到着
  11月12日 伊勢/河口出発
   |   この間、伊勢・美濃国境の狭残での詠草歌が「万葉集」に採ら
   |   れています。また、恐らく伊勢滞在中、伊勢神宮の井上を家
   |   持は訪ねています。
  11月26日 美濃/多藝到着
  12月 1日 美濃・近江国境/不破到着
  12月 4日 行幸騎兵隊解散・帰京
  12月 6日 聖武一行、近江へ向けて不破出発。
   |   橘諸兄以下先発隊、恭仁へ向けて出発。家持は恐らく先発隊
   |   に組み込まれていたと思われます。
  12月15日 聖武一行、恭仁到着。遷都・新京造営を宣言

 恭仁への遷都の裏側については、現在も諸説が入り乱れているようではありますが、いずれにせよ、この1大国家事業を担っていた橘諸兄の意気込み、は並々ならぬものだったでしょうし、当然ですが、それは諸兄と行動を共にしていた家持とて、同様だったはずです。
 ...が、詔発布から約1年後くらいから、新天地を求めたはずの恭仁京は、奇異な運命を辿り始めてしまいます。つまりは、1大国家事業には新京造営ともう1つ、大仏造立もあったわけで、都である恭仁の地を鎮護する寺はやはり鬼門。艮の方角に建てなければならず結果、決まったのが紫香楽の地。随分と都から離れてしまいました。
 そして、次第に聖武は新京造営よりも、大仏造立を優先するように。紫香楽へ行幸しては、中々帰って来なくなりがちになる、という有り様で天平15年(743年)10月。ついに紫香楽へ大仏造立の詔発布。
 一方の恭仁京は、というと同年の年末には大極殿が完成したものの、それと同時に建設自体が中止に追い込まれてしまったのです。


 官人として初めての長期行幸、行く先々の地で歌を詠んでは従駕のものたちを励まし、国を言祝ぎ、身を粉にしての新天地創造、そして挫折。まだまだ年若かった家持には、きっとそのどれもが厳しく、重たく、けれども鮮やかだったことでしょう。さらに、もう1つ。家持の恭仁京時代を語るには、欠かせないエピソードがあります。

 恭仁京時代、家持の許婚の大嬢は平城に残っていました。けれども日々は、官人として忙殺されるばかり。当然のように家持も独り寝を託つ歌が多くもなります。ですが、そんな少々侘しい恭仁京時代の歌群に於いて、取り分け光を放っている相聞があります。家持のお相手は、紀小鹿女郎。
 万葉3期の代表的女流歌人を列挙するならば、恐らくはどんな「万葉集」ファンでも、先ずは坂上、笠女郎、狭野茅上娘子、と3人の名前を語るでしょう。そしてその次。4番目くらいには、ほぼ確実に名前が挙げれるのが、彼女・紀小鹿女郎です。

 家持と紀小鹿女郎は恭仁京で親密になっていきました。内舎人として勤める家持に対し、官女だった紀小鹿女郎。彼女は当時20代前半だった家持に比べて、30代後半に達していて、万葉時代の感覚なら母親ほどの年上、と言った処でしょうか。

 相聞歌については、既にあちこちで書いて来ていますが、石上神社で引用した相聞が、個人的に「万葉集」の中で最も好きなそれであるのだとしたら、家持と紀小鹿女郎のものは、いち歌詠みとして、しみじみ憧れるといいますか、感服してしまうものです。とにかく機知に富んでいて、微妙な艶っぽさが漂い、ある種の駆け引きももちろんあって。
 社交の道具、もしくはコミュニケーション・ツールとしての歌、というものを考えた場合、続く「古今和歌集」や「新古今和歌集」などのような言葉遊び的要素こそ、希薄なもののそれに匹敵して余りある、歌を丁丁発止させることで転がっていく関係性の妙が、とても巧みです。

|黒木取り草も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず
                          大伴家持「万葉集 巻4-780」
|戯奴がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ
                           紀女郎「万葉集 巻8-1460」
|我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す
                           大伴家持「万葉集 巻8-1462」
|昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ
                           紀女郎「万葉集 巻8-1461」


 「(あなたが新しく暮らす家をつくるために)黒木をとり、草刈してお仕えるというのに、甲斐甲斐しい男だと褒めてもくれない」
「若いやっこさんの為に、私が自ら春の野で手を休めずに摘んできた茅花なのよ。さ、食べてもっと太りなさいな」
「ご主人様に恋してしまっているので折角、戴いた茅花を食べても思い悩んで痩せていく一方です」
「昼は宮廷で華やかに過ごしていても、夜は独りで寂しく寝る。主人である私だけがこんな目に遇うなんて、やっこさんも同じ思いをしなさい」

 一体、何処までが本気で、何処までが冗談なのでしょうか...。でも、こういう社交的な側面は、万葉1〜2期には見られなかったもので、前述の坂上とのものも併せて、万葉歌が最も花開いた万葉3期を象徴とする相聞だ、と思います。
 蛇足ながら、幾つか注釈しておきますが、茅花は白茅のこと。俳句の季語にもなっているイネ科の植物で、当時は栄養価の高い食品とされていたようです。
 また、「戯奴/わけ」ですが、人称代名詞です。古語というのは面白いもので、同じ言葉でも様々な人称に遣われる言葉が幾つか有ります。例えば「あれ」ですが、これは1人称の「わたし」であり、2人称の「あなた」であると同時に、3人称の「彼」としても遣われます。そして、この「わけ」は1人称の「私」、それもやや謙った「私め」としても遣われる一方、2人称。それも先の相聞のように、若かったり少し身分の低い男性相手の「あなた」、としても遣われていたようです。

 こんな冗談めかした相聞で、駆け引きを愉しんでいたように見える2人ですが、同時期のものだと思われる別の相聞では、やや雰囲気が違います。

|神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも
                           紀女郎「万葉集 巻4-762」
|百年に老舌出でてよよむとも我れはいとはじ恋ひは増すとも
                           大伴家持「万葉集 巻4-764」


 「別に恋をするには年を取りすぎたから、拒んでいるのではないのです。でも、こうしてお断りした後には寂しく感じるかも知れませんね...」
「あなたが百歳になって抜けた歯の隙間から舌が見え、腰が曲がってしまったとしても、私は厭いません。恋しさが増すことあっても」

 覚えていらっしゃるでしょうか。「神さぶ」、石上神宮で引いた相聞にもありましたが、老いるということで当時、少なくとも女性は30代で「神さぶ」となってしまう、とされていました。
 家持の返歌は相変わらずの戯れ歌といいますか、冗談半分なんでしょうけれど、小鹿の方はそうでもない気がしますが...。

 そして、前述の通りたった3年で恭仁京は放棄。それと同時に、2人の関係も静かに終焉を迎えます。

|鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何ぞも妹に逢ふよしもなき
                          大伴家持「万葉集 巻4-775」
|言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして
                           紀女郎「万葉集 巻4-776」


 「平城宮に居た頃から慕っていましたが、中々逢う機会がなくて」
「先に愛の言葉を口にしたのはどなただったでしょう。なのに、山の田の苗代の水のように、訪れも途絶えてしまって...」

 「鶉鳴く」は古る、を導く枕詞。

 官人として初め携わった国家事業。その慌しさの中で家持が小鹿に求めたのは、心の安らぎだったのでしょう。そして恐らく、彼はそんな小鹿に対する感謝を忘れることはなかったように、個人的には思えてなりません。...その証拠は「万葉集」の小鹿の殆どの歌の題詞に明記されています。

|女郎名曰小鹿也   女郎、名を小鹿といふ(現代語訳:遼川るか)

 と。少し話が「万葉集」から逸れてしまいますが、当時の女性の呼称についてご説明します。もちろん、当時とて人は名前が付けられていました。が、少なくとも女性に関するならば皇族や皇妃以外で、後世まできちんとその名前が残り伝わっている例はとても稀有です。例えば、鵜野讃良ならば讃良が名前で、鵜野は讃良が幼少期に預けられた土地の名前です。...が、彼女は皇族でしたから、讃良という名前を現代に生きる私たちも知ることができます。
 一方、皇族以外。例えば大伴坂上郎女ならば、
「大伴氏の坂上という土地住むご令嬢」
 という意味です。名前は、現代まで伝わっていません。藤原氏と勢力を2分した名門中の名門・大伴氏の家刀自ですら、この状態なのです。

 さらには、ご令嬢という意味に当たる「郎女」ですが、小鹿や笠女郎で判る通り「女郎」とも書きます。これは、共に高貴な身分の女性である証ですし、身分が低くなると「娘子」などに替わります。そして、郎女と女郎の違いは、高貴な中でも特に家族に位の高い官人がいる一門のご令嬢ならば、郎女となると思って戴いていいと思います。...現代の辞書で引くと郎女=少女と出ているものが多いですが、それ以外もちゃんと意味があって尊称でもある、ということですね。
 とは言え、私個人が拙歌の中で遣っている郎女は全て少女、とか娘という意味として、なのは言わずもがなですが。

 ともあれ小鹿は女郎、つまりは身分で語るならば、坂上よりも低いということになります。...が、彼女は名前が「万葉集」にきちんと記されている。そう、これこそが「万葉集」編纂に深く関わっていた、とされる家持ならではの、彼にしか出来ない、彼女に対する感謝の表れでなくてなんだと言うのでしょう。勝手な解釈ではありますが、個人的にはそう信じたい、と思っています。

 源は ざれて詠みしや
 たはむれを 為似て詠みしか
 歌の絢 ほいそ込めては
 玉匣 覆ひ隠して
 詠み読まれ 辿り継ぎぬる
 あそかぎり 遊戯ゆ初めては 
 いついづく まことしそめしは
 至らぬも 二重三重が意
 負はせゐる 言の葉選りて
 さらぬていに やゝまろびたる
 因みゆゑ つね浮草の
 根を絶えて ほとほり、冴ゆて、
 床の海、 ゑ眉、息の緒、
 瞋恚、梦 しがすべからく
 身篭りて 八雲の色が
 なぞらゆる 言葉の花は
 さてもなほ いかに隠しゝ
 胸さへも 洩れ溢せては
 吹かす恋風

 相聞くといふ問答歌 有世ゆ詠み
 伝へ、叶へ、かしづき、成せや、いまが現世   遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 お話を新都に戻します。恭仁京放棄後、なおも迷走を続ける遷都計画は、天平16年(744年)からその翌年にかけて、あちらこちらに変転。けれどもその全てが失策となり、主導者としての橘諸兄の立場にも翳りが見え始めます。そして代って台頭してきたのが、藤原仲麻呂です。

 
 一方、国政ではなく「万葉集」そのものにも大きな変化が現れます。年表と照らし合わせながら「万葉集」を追いかけると判るのですが、天平17年(745年)。この1年が完全なる空白なのです。
 また、翌年以降の内容は、それまでのものと大きく異なり、ほぼ家持個人とその周辺の人々の歌の記録に成り代わってしまいます。「万葉集」の巻17〜最後の巻20まで。所謂「家持歌日記」と言われているものがそれです。
 かつて、身分や性別など分け隔てることなく、どんなに卑賤の身の上であっても、どんなに大和から遠く離れた東国の者の作でも、秀歌であれば採っていた「万葉集」は、あくまで私個人の感覚では巻16で、一旦その命は絶たれてしまった、と思っています。讃良や人麻呂や額田や志貴や鏡が。それぞれの、その時々の思いの丈を編んだ「万葉集」は、もはや存在しなくなってしまいます。

 胸抱く 思ひならばや
 たれかれも 高き短し
 おゆ若き 遥けき東
 むまの爪 とほき筑紫も
 磐之媛 宗と古りして
 家持が 宗とあらたし
 なにひとつ なべてならべて
 すべからく 等しく集ひ
 集はせて 抄したるては
 壱拾と六 国も揺るなば
 何はなくも またも倣へと
 行き惑ひ 見えぬいづれに
 臆せして 暇ひと歳
 経ればこそ 継がるゝものと
 いま思へ 萬言の葉
 集はすは 萬の思ひ
 集はせて 千歳越えさせ
 刻まゆる かつてのひとの
 玉響の 思ひ重ねて
 いまに生く こが思ひへと
 ひらさらに 告げる別れに
 自づから 合はす掌
 しがごとくとも

 続きゐるにき紐解かむ譬へすでにかつての草紙の様はなくとも   遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 「むまの爪」は筑紫を伴う枕詞。拙歌中の「国も揺るなば 何はなくも またも倣へと」は当然ですが、「恭仁も揺るなば 難波なくも またも奈良へと」との懸詞になっています。さらには、磐之媛は万葉歌で最も年代が古い歌の詠み手。仁徳天皇妃の磐之媛命のことです。

 恭仁京放棄後、今度は難波へ遷都。けれども聖武はまたも紫香楽へ逗留し続けます。そして、天平17年(745年)には紫香楽宮への遷都が宣言されます。が、同年5月くらいから旱魃・山火事・地震といった災害が続発し、流石の聖武も一旦、平城へ帰還。夏には難波への行幸も行われたようですが、聖武本人が病に倒れ、結局はもとの平城宮への遷都。紆余曲折を経たのち、再び都は奈良へ戻ったというわけです。

 さて、お話が長くなってしまっていますが、それでもそもそもの話題の元である高円。この高円という土地に刻まれた歴史と関わった人々の辿った運命、悲哀や懐古。それらを何よりも雄弁に語っているものこそが「万葉集」の巻17以降、「家持歌日記」であることは間違いなく、同時に万葉の時代が。奈良時代が。どう終焉を迎えていったのか...。
 それを解くには、「家持歌日記」は必要不可欠だ、と私は思います。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 奈良期間後、家持は国防の要とも言える越中守として、北陸へ赴任。この越中時代の幕開けと共に、「万葉集」の「家持歌日記」も始まります。ですが、年代的に、これ以前から始まり、恐らくは越中時代に至るまで、かなりな年月に渡って静かに続けられた関係についても、少し触れたく思います。

 大伴家持。彼の人生を彩った女性は多く、そもそも彼自身が編纂に大きな力を持っていた以上、そういった女性との相聞歌や、自らに贈られた歌など、秀歌であれば「万葉集」は分け隔てなく、取り込んでいきました。
 けれども、詠み手と家持の関係性が深いほど、交わされた歌数も増えるでしょうし、歌数が増えればまた、「万葉集」にも多く採られる、ということになったのでしょうか。前述の紀小鹿女郎もそうですし、同じ大伴一門である坂上や大嬢については、言うまでもないでしょう。そして、そういう見地に立った場合、小鹿以上に重要な歌人がいます。
 笠女郎です。彼女もまた、家持を彩った女性の1人です。

 笠女郎。正直、彼女に関しては実際の万葉巡りとは別枠で、一度きちんと「万葉集」に採られている29首。全て家持へ贈ったものであり、実際はこの数倍はあったであろうと思われますが、ともあれ「万葉集」に残っているそれを追いかけ、纏めてみたい、という気持ちがあります。
 それは1人の女性の恋の軌跡といいますか、喜び、嘆き、苦しみ、時に壊れてしまう女性の内面が切々と流れている秀歌ばかりだからです。

|我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ
                            笠女郎「万葉集 巻4-587」
|あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな
                            笠女郎「万葉集 巻4-590」
|君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも
                           笠女郎「万葉集 巻4-593」
|八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守
                           笠女郎「万葉集 巻4-596」
|相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし
                           笠女郎「万葉集 巻4-608」


 「この形見の品を見るたび、私を思い出してください。譬え逢えなくても何年も何年もお慕いしていますから」
「逢ってから何年も経ったからといって、「今はもう」と私の名を人に洩らすようなことは努々しないで下さい。愛しいあなた」
「あなたへの想いが募って、もうどうしようもなくて、奈良山の小松の下に佇んで嘆くことしかできません」
「歩き尽くすのに八百日もかかるような長い浜の砂粒を全部合わせたって、私の恋心の果てしなさには敵いません。そうでしょう、沖の島の島守さん」
「片思いの相手を信じて、ひたすら思い続けるのは、まるで大寺の餓鬼の像を後ろから額づいて拝むようなものだ」

 笠女郎の歌は詠草年が明記されていません。が、その殆どが収録されている巻4は、かなり年代順にきちんと整頓されている巻でもあります。なので、少なくとも巻4に収録されている24首は時系列順になっているのでしょう。
 そして、その最初の歌には「形見」「年の緒長く」など、数年に渡る離別が暗示されています。通説では2人の相聞は天平初期、とされていますがその時期に家持は奈良以外の土地へ長期滞在はしていません。とはいえ、別の時期だとしても大宰府では早すぎ、恭仁京時代には紀小鹿女郎がいます。...とすると、越中守時代と考えるのが1番妥当となり、さらには同時期の歌に「あらたまの年の経ぬれば」とありますから、やはりこの時点でそれなりに時間を経た、関係だったのでしょう。一説には笠女郎は家持の「隠り妻」だった、というものもありますが...。
 「我が名告らすな」という常套句も見えますが、これは関係を持っている相手の名前を口外する。つまりは、2人の関係を口外することへの戒めで、当時の慣わしでは、逢瀬を終えた後朝でよく言い交わされた言葉だった、といわれています。






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