ほんの数歩。たったそれだけで渡り切れてしまう、能登川に架かってる橋を歩き終えれば、それは同時に万葉後期の代表的歌枕から去る、ということになります。つまりは丁度、なだらかな山麓の裾が能登川の辺りで終わる、ということなのですが、これが高円。歌枕としては「高円山」とか「高円の野」などと詠みこまれている山です。 高円山は万葉の時代、大宮人たちの行楽の場でした。だからでしょうか。高円に纏わる歌には、四季の移り変わりを花や鳥に寄せてものばかりです。 山そのものは春日山の南側に連なっていて、標高462m。一見、ひとつの山塊のようにも見えますが、自生している樹木類、林相は全くの別物で、春日山や御笠山などが常緑樹に覆われて、鬱蒼とした印象なのに対し、高円山はもっと背丈の低い落葉の雑木、そして薄と萩で縁取られています。 聖武天皇の時代、繁栄の頂点であった万葉3期、この高円山には前述の通り志貴皇子の山荘があり、さらには聖武天皇の離宮まであったとされています。余談ですが、この離宮は未だに場所の特定はされていないようですが...。 先ずは、行楽地としての高円の側面を、これ以上はないであろう、というくらいに物語っている長歌とそれが伴う反歌をひとつずつ。 |ま葛延ふ 春日の山は |うち靡く 春さりゆくと |山の上に 霞たなびく |高円に 鴬鳴きぬ |もののふの 八十伴の男は |雁が音の 来継ぐこの頃 |かく継ぎて 常にありせば |友並めて 遊ばむものを |馬並めて 行かまし里を |待ちかてに 我がする春を |かけまくも あやに畏し |言はまくも ゆゆしくあらむと |あらかじめ かねて知りせば |千鳥鳴く その佐保川に |岩に生ふる 菅の根採りて |偲ふ草 祓へてましを |行く水に みそぎてましを |大君の 命畏み |ももしきの 大宮人の |玉桙の 道にも出でず |恋ふるこの頃 作者不詳「万葉集 巻6-948」 |梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに 作者不詳「万葉集 巻6-949」 「ま葛延ふ」は春日、「うち靡く」は春、「ももしきの」は大宮人を、それぞれ伴う枕詞です。 「葛が這っている春日山へは春になったら行くとして、山峡に霞みが棚引く高円に鶯が鳴いている。文武百官の人々は、雁が次々に飛んでくるこの頃、いつもならば友と連れ立って遊ぼうものを...。馬を並べて行くはずの里だというのに...。待ち兼ねていた春になったというのに...。心で思うことも、言うのも憚られることになると、予め判っていたら千鳥鳴く佐保川で石に生えた菅の根を取り、忍ぶ草としてお祓いでもしておけばよかった...。佐保川で禊でもしていればよかった...。でも、天皇のご命令が畏れ多いから大宮人が外出もせずに春の野辺を恋焦がれているこの頃よ」 「春が過ぎるのを惜しんで、ちょっとそこまで遊びに行っただけなのに、宮中では大騒ぎなんてして...。この罰は酷すぎる」 歌意はこんな感じになるでしょうか。といって、これだけは意味が判り辛いでしょうから、高円そのものからは少しお話が逸れてしまいますが、裏事情をご説明します。 |右は神亀4年の正月に、数皇子と諸臣子等と、春日野に集ひて打球の楽をなす。その |日たちまたに天陰り雨ふり雷電す。この時に、宮の中に侍従と侍衛と無し。勅して |刑罰に行い、みな授刀寮に散禁せしめ、妾りて道路へ出づること得ざらしむ。その |時に悒憤みしみ、すなはちこの歌を作る。 「万葉集 巻6-948、949」左注による つまり聖武天皇の時代、宮中の若手エリートたちが揃って、任務をエスケープして春日野へ打球に出かけてしまったんですね。が、そんな時に突然の天候悪化。雷が轟く宮中は天皇を警護する者たちが、もぬけの殻なので大混乱。なので、天皇よりの勅命で、関係者達は外出禁止令が出てしまった、と。上記引用歌はそれに対する不平不満を詠んだものである、と言った処でしょうか。 余談ですが、この当時聖武は26歳。恐らくはエスケープしたエリートたちと同世代だったはずです。 流石はのちに続く政局の混乱を前に、平穏で安寧だった天平の聖武朝時代。万葉1期や2期の何処か緊迫感のあった頃とは、人々の詠む歌もまた変わっています。そして、ここで注目したいのが、長歌に登場する春日野や、高円、という地名が明らかに行楽地として詠まれている点です。 職務を放り出してでも出かけたかったのですから、よほど春の高円は遊び心を擽る、魅力的な地だったのでしょう。蛇足ですが、春日野については、きちんと後述させて戴きます。 |
高円、もしくは高圓として詠みこまれている歌は、「万葉集」に24首。けれども、高円は「高松」と書いて、たかまとと読まれていたこともあるようで、高松として詠み込まれているものが6首、合計で30首ほど「万葉集」登場します。 けれども、少なくとも高円もしくは高圓として詠まれている歌は、その殆どが大伴家持を筆頭とした大伴一門や、その関係者によって詠まれたもので、それ以外での歌、となると前述の志貴への挽歌と、エスケープに関連したもの、あとは数えるほどしかなく、けれどもそれらはみな高円の情景を詠み上げ、それほどまでに人々を魅了した高円の景色や風情を垣間見させてくれます。 そして、それは高松、と詠まれている歌も同じでしょう。 |春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ 河邊東人「万葉集 巻8-1440」 |雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも 作者不詳「万葉集 巻10-1866」 |秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも 作者不詳「万葉集 巻10-2121」 これらはみな詠花、つまりは花を詠んだ歌です。続いて詠黄葉、つまりは紅葉を詠んだものを幾つか。 |春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山 藤原八束「万葉集 巻8-1571」 |雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける 作者不詳「万葉集 巻10-2191」 |里ゆ異に霜は置くらし高松の野山づかさの色づく見れば 作者不詳「万葉集 巻10-2203」 花がある以上、ある意味に於いては当然ですけれど、詠月、詠雪もあります。 |春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に 作者不詳「万葉集 巻10-1874」 |暮されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる 作者不詳「万葉集 巻10-2319」 そして、個人的には高円の自然を詠んだ歌の中で、最も好きなのが詠芳、つまり高円に漂っていた季節の空気の匂いを詠んだものです。 |高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ 作者不詳「万葉集 巻10-2233」 春、秋、冬。折々の季節の中、高円がどれだけ美しく映え、そして人々に愛されていたのかが、真っ直ぐに伝わって来ますね。...21世紀の今となっては。もしくは訪ねたのが真夏だったからなのか。いずれにしても私が訪ねた範囲では、あまりそれらの情景に触れられなかったのは、残念でしたけれども。 細蟹の いまはあをのゝ 高円に いまは満ちゐぬ 秋の香の いづれ匂ひて 満ちて満つ ものにてあれば 萩さへも 咲かゆるものと この峰も 色づくとふを 覚ゆるに せめて目閉ぢ あが胸へ 手繰るがごとく 風をかむ 空をかまくほし 季を先どるらむ さてもなほ秋づくなどや三伏の高円待たゆる色無きの風 遼川るか (於:新薬師寺へ向かう路上) 「細蟹の」はいまを伴う枕詞です。 余談ですが、藤原八束は藤原4兄弟の次男・房前の3男。ただ八束は一般名ではなく、普通は後の真楯の名前で知られているはずです。前述しているように、藤原4兄弟の中で、最も後世まで栄えたのが2男・房前の北家ですが、その北家の中でも、後世の主流、つまりは藤原道長を排出したのがこの八束以降の系譜です。 また、河邊東人は八束の父親・房前の家令だった人物。 このように風光明媚にして絶好の行楽地であった高円は、けれども「万葉集」全体から見た場合、そして政治的な混乱と、続く平安への流れと言う視点からした場合、全く別のとても、とても大切な意味合いを兼ね備えてもいます。 そして、それを語るには、ある大歌人の人生について言及することもまた、避けては通れないでしょう。人麻呂よりも、額田よりも、山部赤人や山上憶良であろうと、「万葉集」という歌集に於ける存在感と、果たした功績の大きさでは、他の追随を許さない、許せようはずもない歌人。 その人の名は、大伴家持といいます。 −・−・−・−・−・−・−・−・− |
大伴家持は、養老2年(718年)に生まれた、とされています。父親は大伴旅人。家持が生まれた時にはすでに、中納言従四位上の地位で、年齢もすでに50代半ばになっていました。坂上に関連して書きましたが、旅人は男の子に恵まれず、のちに家持の弟・書持が生まれてはいるものの、他の男子の名前は全く見当たらないことからしても、長いこと待ち望まれていた嫡男だったのだろうと思います。 家持は旅人の正妻の子ではありません。が上述のような理由から、大伴氏の跡取りとして、早い時期に父親の元へ引き取られたのでしょう。所謂、佐保大伴家です。そして、そこには当時の家刀自であった石川内命婦や、その娘にして旅人の異母妹、家持にとっては叔母に当たる坂上などが暮らし、出入りしていました。さらには、彼女たちは宮仕えの経験者ですから、当然のように社交の道具としての和歌にも通じています。 家持の幼少期は、これら和歌に長け、社交を好む女性に囲まれて、こと情操面の成長にはとても恵まれていたのだ、と思えてなりません。 時代は、藤原不比等が権勢を極め、のち400年にも及ぶ藤原氏の宮廷支配の地固めが進んでいました。不比等の他界、長屋王事件を経て迎えた聖武朝。活発に各地を行幸した聖武に従った、宮廷歌人でもあった、父・旅人、山部赤人、車持千年、そして宮廷歌人ではなかったかも知れませんが、笠金村などが各地で歌を詠んでは、万葉歌が最も隆盛した万葉3期。日本という国そのものも、律令国家として最盛期を迎えていた時代。 家持はこういう時代の中、人間として、歌人として、そして官人として、成長していったのです。 佐保大伴家は、平城宮の東北、現在の法華寺界隈に当たる土地にありました。恐らく彼は、平城京が放棄される時まで、この佐保の地に本拠を置いていたのだ、と思います。 佐保は山と川に恵まれた土地でした。家持は山や川、そこに集う鳥、野に咲き誇る花などを身近に眺め、感受性を研ぎ澄ませていったのでしょう。「万葉集」で見る限り、彼の最初の作歌は天平4年(732年)頃からようで、この頃の相聞の相手は、主に坂上です。 |月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に逢へるかも 大伴坂上郎女「万葉集 巻6-993」 |振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも 大伴家持「万葉集 巻6-994」 「三日月のような形に眉を描きながら、やがて逢えるのでは。いつかは逢えるのでは。と長く慕ってきたあなたに、今日とうとう逢うことができました」 「空を振り仰ぎ、三日月を見ていたら、たった一目見た人の美しい眉が思い出されてなりません」 ...流石です。坂上について書いた時は敢えて引用しませんでしたが、やはりご紹介したくなってしまいました。これが、代作歌人として坂上が愛娘・大嬢になり代わり、家持と交わした相聞の1つ。とは言え、作歌のお稽古でもあったわけですから、「三日月」という題材が、定められていた形跡があります。 叔母・坂上は 「眉を描くと思う人に逢える」 という当時の俚諺を踏まえて詠草。家持もその延長で詠草したのでしょう。そして坂上に、大嬢への想いをそれとなく伝えた、というわけです。 詠草年がきちんと明記されている最初の歌、となると家持の場合、天平8年(736年)の「大伴家持の秋の歌4首(巻8-1566〜1569)」となってしまいますし、未記載である以上、断定はできませんが、上記の歌が「万葉集」に採られている家持御製歌479首の中では最も若くして詠まれたのではないか、との説もあります。 遠白き歌主とても世籠りしほど 世づかずてはぢらふごとく詠みし恋歌 遼川るか (於:本日さねさしさがむゆ) 少し時期は前後しますが、この坂上との相聞以前、「万葉集」の記述を見る限り家持は一時期、大宰府にいました。これは、神亀4年(727年)暮頃に大宰府勤めになった父・旅人に同行したもので、少なくとも天平2年(730年)までは滞在していたようです。 大伴氏全般ではこの大宰府時代、旅人の正妻・大伴郎女が他界、さらには旅人の弟にして、坂上の夫であった宿奈麻呂も他界。これを受けて家刀自に任命されたのが坂上なのは、すでにご説明しました。 時代背景としては、井上に関連して書きましたが丁度、旅人と家持が筑紫へ下向した頃、聖武天皇に待望の男子・基親王が誕生。けれども、この皇子が約1年で夭折してしまったのは、前述の通りです。そして、もう1人の男子が井上の弟・安積だった、と。先の長屋王事件然り。確実に時代は藤原氏が弄び始めていました。 けれども、「大君の遠の朝廷」と呼ばれた大宰府では、文化の華が咲き誇ります。後世に名を残す数々の歌人たちが、偶然にも筑紫へ集っていきます。「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく〜」の小野老、そして山上憶良です。 山上憶良。譬え「万葉集」収録、ということは知らなくとも、この2首はご存知の方も多いことでしょう |銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 山上憶良「万葉集 巻5-803」 |風交り 雨降る夜の |雨交り 雪降る夜は |すべもなく 寒くしあれば |堅塩を とりつづしろひ |糟湯酒 うちすすろひて |しはぶかひ 鼻びしびしに |しかとあらぬ ひげ掻き撫でて |我れをおきて 人はあらじと |誇ろへど 寒くしあれば |麻衾 引き被り |布肩衣 ありのことごと |着襲へども 寒き夜すらを |我れよりも 貧しき人の |父母は 飢ゑ凍ゆらむ |妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ |この時は いかにしつつか |汝世は 渡る天地は |広けれど 我がためならば |狭くなり たりけるものを |ぬる日月は 明しといへど |我がためは 照りやたまはぬ |人皆か 我のみやしかる |わくらばに 人とはあるを |人並に 我れも作るを |綿もなき 布肩衣の |海松のごと わわけさがれる |かかふのみ 肩にうち掛け |伏廬の 曲廬の内に |直土に 藁解き敷きて |父母は 枕の方に |妻子どもは 足の方に |囲み居て 憂へさまよひ |かまどには 火気吹き立てず |甑には 蜘蛛の巣かきて |飯炊く ことも忘れて |ぬえ鳥の のどよひ居るに |いとのきて 短き物を |端切ると いへるがごとく |しもと取る 里長が声は |寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ |かくばかり すべなきものか |世間の道 山上憶良「万葉集 巻5-892」 「ぬえ鳥の」はのどよひ、を伴う懸詞。 子供のことや、生活に密着した作風と言われている憶良の代表作として国語や社会の教科書に載ることが多い2首、特に長歌は所謂「貧窮問答歌」と呼ばれ広く知られていますね。 彼は日本人であったのか、百済人であったのか、は不明とされていますが、白村江の戦いで破れて、百済は事実上、滅亡。その為、当時は日本へ渡来する百済人が後を絶たず、憶良もその1人だったという説が有力視されています。因みに渡来時の年齢は逆算すると4歳。 また、憶良の名前が正式に日本史に登場するのは彼が42歳の時で、官位はなかったようですが遣唐使として派遣された記録を「続日本紀」に見ることが出来ます。 やがて帰国した憶良は、特段の出身身分がなかったにも関わらず、着実に出世昇進し、霊亀2年(716年)には島根県伯耆守に、さらには神亀3年(726年)には筑紫守を拝命。そして太宰府へと下向しました。66歳の時です。 一方の旅人は憶良から遅れること2年、神亀5年(728年)に64歳にして太宰の師を拝命・下向。旧豪族系の大伴氏は、新興の藤原氏にとって、とても煙たい存在でしたから一種の左遷でしょう。 ですがこれにより、「万葉集」の中で最も独特の歌風と新境地をつくり上げた、筑紫歌壇の。その軸たる邂逅が果たされます。 旅人と憶良は、競うかのごとく歌を詠み、詩作に励みました。そして家持も、この筑紫歌壇を、幼ないながら現地で実際に体験していたわけです。 筑紫歌壇に集った旅人、憶良以外の歌人の歌も幾つかご紹介しておきます。 |時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな 小野老「万葉集 巻6-958」 |月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ 大伴四綱「万葉集 巻4-571」 |今よりは城の山道は寂しけむ我が通はむと思ひしものを 葛井大成「万葉集 巻4-576」 |韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも 麻田陽春「万葉集 巻4-569」 |ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり 沙弥満誓「万葉集 巻4-573」 |草枕旅行く君を愛しみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を 大監大伴百代「万葉集 巻4-566」 天平2年。旅人は大納言を拝命し、藤原武智麻呂と太政官の最上位を分かち合うこととなります。そして同年の暮れに一家は、佐保へ戻りました。その翌年7月、旅人が67歳の生涯を閉じます。家持、14歳の夏でした。 父親との死別こそありましたが、理想的な環境で、伸びやかに成長していった家持。そんな彼の歌が初めて翳りを帯びるのは天平11年(739年)。現代では「家持悲傷亡妾歌」と呼ばれる短歌12首・長歌1首(うち1首は弟・書持作)の連作です。 |今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む 大伴家持「万葉集 巻3-462」 |秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも 大伴家持「万葉集 巻3-464」 |うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも 大伴家持「万葉集 巻3-465」 「これから秋風は寒く吹くのに独り、長い夜をどうやって過ごすのだろう」 「秋に見て思い出して、と妻が植えたこの撫子の花。ここに咲く撫子の花」 「空蝉の世に常なるものはない、と判っているけれど寒い秋風に、亡き妻を思い出す」 |
当時、家持には第2夫人がいました。その彼女が天平11年の春、撫子を植えたものの、花が咲く前に亡くなってしまったことによる挽歌です。撫子は陰暦6月に咲いたようで、だからこその秋風なのでしょう。。 この連作で、家持の少年期は幕を閉じます。前後して彼は宮仕えを始め、ここから長く続いた、激動の時代に身を投じていくのです。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 官人としての家持のスタートは、内舎人でした。そして、この内舎人時代最大の出来事は大嬢との結婚でしょう。奈良時代、貴族達はそれでも田植えと稲刈りの時期は、それぞれの田荘にて自ら農作業に従事していました。それは宮仕えの官人とて同様で、田暇という休暇が得られる制度があったようです。 恐らく、家持もこの田暇を利用して、大伴の竹田荘へ出向いたのでしょう。そこには、当然ですが、坂上とその娘・大嬢もいます。 |我が蒔ける早稲田の穂立作りたるかづらぞ見つつ偲はせ我が背 坂上大娘「万葉集 巻8-1624」 |我妹子が業と作れる秋の田の早稲穂のかづら見れど飽かぬかも 大伴家持「万葉集 巻8-1625」 「私が自分で種籾を蒔いて育てた早稲田の稲穂で作ったかずらです。これを見て私のことを思い出してくださいね、愛しいあなた」 「愛しいあなたが生業でつくった秋の田の早稲。その穂のかずらは、どれほど見ても飽きることがありません」 かずら、とは今で言うリースのようなものだと思います。本来は蔓草に花や珠を付けていたようですが、刈り取ったばかりの稲穂で作ったかずらは、その生命力を、身につけた相手に宿らせてくれる、という呪術的側面があったようです。 また生業、と出て来ますがこれも、大嬢が行く行くは母・坂上の後を継いで大伴の家刀自となるための、いわば花嫁修行とか主婦修行の一環だ、と思って戴いていいと思います。そして、仮に家刀自となれた暁には、通い婚が当たり前の当時ですらも、妻は家主である夫との同居が可能になるんですね。 ...何となく、大嬢が実ったばかりの早稲を編んで、かずらを家持に贈った意味が、静かに伝わって来ます。一方の家持とてそれは同じで、同居を望む彼の歌は複数「万葉集」採られています。 |朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ 大伴家持「万葉集 3-403」 |夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし 大伴家持「万葉集 4-755」 「朝も昼も見ていたいと思うあなた、という貴い珠をどうしたら手放さずにいつも持っていられるのでしょう」 「夜明けに妹の元から帰ってくることが度重なったので、もう胸が切り裂けて、焼かれるようだ」 10代の初め。まだまだ幼く、初々しく、けれども一途に始まったこの幼馴染同士の恋は、天平4年(732年)頃には既に許婚としての関係は成立していました。とは言え、まだ10歳程度だった大嬢に家持の気持ちが動かず、数年に及ぶ離別と、さらには前述の通り別の女性を側室に迎えたり、という局面もあったようです。...が、坂上の力添えもあって、やがて収まる処へ収まります。 とはいえ、家持はすぐに天皇行幸への同行や、新都・恭仁京への移住も余儀なくされたため、2人が正式に婚儀を結んだのは天平16年(744年)以前の秋だった、ということまでしか判っていません。 |
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