新薬師寺界隈は、恐らく普段は静かな住宅地なのでしょう。けれども夏休み最後の日曜日だったからなのか、あちこちに団体さんがわさわさ。そんな団体さんの行進の合間を縫って、細い路地を進みます。辻々に出ている看板には、矢印と
「白亳寺 〇m」
 の文字。案内に沿って約1kmほど歩くと、石を敷き詰めた階段に着きました。白亳寺。元々は志貴皇子の山荘だった、といわれている高円山麓の高台に佇むお寺です。
 「万葉集」を語るとき、欠かせない歌人は沢山いますし、前述したものだけでも結構な数になると思います。
 が、皇族にして秀歌を多く残した歌人を語るとするならば、先ず1、2を争う早さで名前が挙がるであろう1人が志貴皇子であることは、疑う余地もありません。「万葉集」に6首採られている歌は、既に引用している「采女の袖〜」を筆頭に現代でも、「万葉集」を代表、人気の高いものばかりです。

|石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
                          志貴皇子「万葉集 巻8-1418」


 志貴皇子は天智の第7皇子でした。けれども壬申の乱の後に結ばれた6皇子の盟約に、川嶋皇子と共に参加。天武即位以降、長く続いた天武系宮中に於いて、決して主流派になることなど叶わない、それ処か、1つ間違えたら如何様にも罪状を捏造され、我が身が誅されるかも知れない、という微妙な立場を、政治や軍事に殆ど加わらず、詩歌や風流を愛でることによって生き抜きました。もう一方の川嶋は、前述の通り大津謀反の密告者であったのか、されてしまったのか。いずれにせよ、若くして他界してしまったのですから、余計に残された彼の置かれた状況は、決して心地好いものではなかったでしょう。

 けれども時代の巡り合わせ、というのは面白いものです。井上に関連して書きましたが万葉4期、当時は厳然として且つ揺ぎ無く存在していた「あくまでも皇統は天武系」という暗黙の了解。これが覆されます。凡そ100年、1世紀ぶりに天智系が皇位継承。そう、白壁王(光仁天皇)なのですが、この白壁の父親こそが志貴皇子その人。そして、平城京最後の天皇であった白壁の、皇位を継いだのが志貴の孫である・桓武天皇。都は京都へ移り、平安京最初の天皇でもありました。やがて、平安期以降の皇統は系譜を辿る限り、現在に至るまでこの天智の。そして志貴の。流れのままで進んでいっています。
 余談ですが、彼の子供には他に孝謙(称徳)天皇の寵愛を糧に政治への介入及び懐柔をした怪僧・弓削道鏡もいます。

|葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ
                           志貴皇子「万葉集 巻1-64」


 季節折々の自然と、それに因んだ情感を詠み上げた歌の多い志貴ですが、実は「万葉集」収録の6首には別人説があります。曰く、本当の作者は天武の子供の磯城皇子(しきのみこ)であるとか、ないとか。
磯城皇子。母親は宍人臣大麻呂の女で、同母きょうだいに忍壁皇子や泊瀬部皇女、多紀皇女などがいます。余談ですが、この多紀皇女は大伯のあとを継いだ第11代の伊勢斎王で、退下後には志貴の正妃となっています。
 磯城は、生没年不明。朱鳥元年(686年)、志貴と共に封200戸を加えられた形跡はありますが、それ以降は消息が判っていません。恐らくは、夭折してしまったのではないか、と思われます。
 その点、志貴は天平期当初まで生きていたことが判明しているので、やはり「万葉集」の歌の作者は志貴本人でしょう。

 志貴の歌については、その朝廷内での微妙な立場から、個々の内容について裏の歌意がよく研究されています。特に有名なのが

|むささびは木末求むとあしひきの山のさつ男にあひにけるかも
                            志貴皇子「万葉集 巻3-267」


 「ムササビは梢を探しているうちに、山の漁師にであってしまったのだなあ」
表の歌意自体はこういう内容ですが、実際は大津のことをムササビに喩えているのであろう、という解釈が現代では一般的です。曰く
「大津は天皇の位を欲しがったから、自ら身を滅ぼしてしまったんだなあ」

 どうなんでしょうね。志貴は生年が不明なので、詳しくは判りませんけれど、少なくとも6皇子の盟約への参加時には成人(当時の成人は現代のそれより、ずっと若いです)はしていたはずなんですが、盟約時19歳だった大津よりは若かったでしょう。
 そして、その幼さ故に異母兄弟である川嶋にはそれなりに心を許しては居たと思いますし、だからこそ川嶋が大津謀反の密告者となってしまった以上、大津に対してどんな感情を抱いていたのかなど、手繰りようもありません。親しかったのか、複雑な感情を寄せていたのか。それとも、そういう世俗には一切頓着もせずに、風雅に心を傾けていただけだったのか。

 ただ、情景から喚起される思いを清々しく詠み上げた歌の多い志貴に関しては、むしろあれこれ裏の歌意を手繰ろうというのも、それはそれで少々無粋なのかも知れません。清々しいものは、その清々しさだけで充分であって、それこそ後世的史観からの考察というのは、それを目的とした時点で既にバイアスが掛かってしまっている可能性も高いですから。

 6皇子の中で、最も後まで生きていた志貴も、やがて霊亀2(716)年に他界(「万葉集」の左注にはこの1年前となっています)。彼にもまた、挽歌が贈られます。詠み手は笠金村。万葉3期の代表歌人です。

 笠金村。幾つかの歌は石上神宮でも引きました。水落遺跡で少し触れた笠女郎と同門・笠氏の出身です。「万葉集」に採られているのは短歌33首、長歌9首。但しこれには「笠金村歌集」を出典とする歌も含みますが、笠金村歌集は事実上、収録歌は総て彼の御製と言われていますから、数え入れてしまっても問題はないでしょう。
 彼にも、天皇の吉野行幸にも従った足跡は見られますが、人麻呂や旅人、高市黒人、山部赤人らとは様子が異なり、どうやら宮廷歌人という印象は希薄です。むしろ官人として行幸に従っていたのかもしれません。
 そして、この宮廷歌人的ではない特徴こそが、笠金村の最大の魅力で、少なくとも個人的には、長歌の詠み手としては人麻呂と互角、歌によってはそれ以上ではないか、と思わずにはいられないほどに巧みで斬新なそれを、「万葉集」に残しています。

|梓弓 手に取り持ちて
|ますらをの さつ矢手挟み
|立ち向ふ 高円山に
|春野焼く 野火と見るまで
|燃ゆる火を 何かと問へば
|玉鉾の 道来る人の
|泣く涙 こさめに降れば
|白栲の 衣ひづちて
|立ち留まり 我れに語らく
|なにしかも もとなとぶらふ
|聞けば 哭のみし泣かゆ
|語れば 心ぞ痛き
|天皇の 神の御子の
|いでましの 手火の光りぞ
|ここだ照りたる
                           笠金村「万葉集 巻2-230」
|高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
                          笠金村「万葉集 巻2-231」
|御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
                          笠金村「万葉集 巻2-232」



 「玉鉾の」は道を伴う枕詞です。

 「梓の弓を手に取り、勇者が得物を射る矢を手に挟んで高円山に立ち向かうと、春の野を焼く火のように思われるほど、火が燃えている。『あれは何だ』と訊けば、道を来る人は、涙を小雨のように降らし、白い衣を濡らして立ち止まり、私に語る。『何故みだりに言葉を掛けるのか。声を掛けられるとまた涙も新たになってしまう。語ると心も痛む。あれは神の御子が、あの世に行かれる手火の光が、照るように燃えているのだ』と」
「高円の野の秋萩は、空しく咲いては散っていくだろう。見るべき人がなくなった後も」
「三笠山の裾の野辺の道は草が茂って荒れてしまっただろうか。皇子がなくなっていくらも経っていないけれども」

 井上に関連して、すでに挽歌については書きました。そこで私は「定石」と言っています。...が、笠金村の挽歌には、先ずそれがありません。人麻呂の挽歌ですと、長歌の前半1/2は歌を贈る相手への賛辞を朗々と打ち連ね、殆ど祝詞にも近い風情です。そして後半も、詠み手はその悲しみにくれる余り、のたうち、転がりまわり、胸を掻き毟り...。つまりは、とても大仰で濃厚なんですね、表現が。もちろん、それはそれで、魅力的です。まさに万葉、まさにますらをぶり、なのですから。

 けれども一方の、笠金村の挽歌。最初に前半の祝詞様賛辞が、ありません。続いて歌に詠み手以外の人物が登場すること。...もちろん、人麻呂の挽歌にも登場人物はいましたが、総ては詠み手の視界に入ったもの、としての存在感しかありません。が、金村の挽歌に登場する別人は、きちんと歌の構成の一部を担っています。そして、最後に斬新さの極みとして挙げられるのが台詞、です。
 件の挽歌の9句目の一部、さらには19句目以降は、歌に登場する2人の人間の会話で構成されている、というわけです。

 ...余談にして手前味噌になってしまいますが、私自身も本作「あきづしまやまとゆ」の中で、この手法を取り入れています。甘樫丘で詠んだ121句にもなる、延々長い長歌では数箇所、亡母と私の往時の会話を古語に訳した状態で、そのまま詠み込んでいます。

 ――な聞きそね なはちぶきそや 尊ばむ 余すことなく たゞ食まむ /娘

 ――けだし戀ひなど をなせらば うち/\触れる さがなしに /母
 ――よもやせざるて うち/\に 寿詞唱へむ /娘


 また、金村の挽歌の反歌2首のうち、1首目「高円の野辺の秋萩いたづらに〜」についてですが、...もうお判りでしょう。そう、「いたづらに」です。挽歌を贈られる当人であるのは志貴皇子。その彼の最も有名にして優れている、とされている歌が、例の

|采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
                       志貴皇子「万葉集 巻1-51」 再引用


 ですから、これは明らかな本歌取りとなります。志貴に関しては、古今や新古今でも随分多く、本歌取りされているんですね。そちらも、幾つか例示しておきましょう。

|たづのすむ沢べの葦の下根とけ汀もえいづる春は来にけり
                   大中臣能宣朝臣「後拾遺和歌集 巻1 春上 9」
|なげきつつひとりさやねん葦辺ゆく鴨のはがひも霜さゆる夜に
                     花山院長親「新葉和歌集 巻11 恋1 662」
|焼きすてし煙の末の立かへり春もえ出づる野べのさわらび
                     亀山院「新千載和歌集 巻16 雜上 1681」
|あすか風いたづらにちる紅葉かな都を遠み見る人やなき
                       二条為忠「新葉和歌集 巻6 冬 431」


 一方の志貴本人も、実は本歌取りをしています。「万葉集」には本歌と併せて採られていますので、こちらもご紹介しておきます。

|神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ
                          志貴皇子「万葉集 巻8-1466」


 あれ、と思われた方、有り難う御座居ます。といいますのも本歌は既に拙作内でご紹介済みなものですから。

|神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる
                       鏡女王「万葉集 巻8-1419」 再引用


 本歌取り。言ってしまえばパロディであり、パスティッシュ(模倣)でもあります。そういう意味では、こと文学的見地からすると、考え方の分かれる技巧なのかも知れません。
けれども、本歌取りには大きな効果があります。つまり、その時々で既に定番的に扱われるようになっている歌の一部を借りることで、少ない文字数でも本歌が帯びている雰囲気や季節感、情感などが一気に表現できてしまうんですね。
 さらには、本歌取りを多くされている歌、ということはそれだけ後世、誰にでも当たり前のごとく知られている何よりもの証であって、つまりは志貴の歌は、何も現代に至るまでもなく、すぐ直後の万葉3期、平安、中世、そして現代と1300年の間、ずっと。ずうっと、人々から深くふかく愛され続けている、ということでもありますし、彼がそれだけの才を宿した歌人であった、ということなのです。

 
 白亳寺の石段は両側から伸びた萩の枝に覆われるようになっていて、もう少し訪ねるが後だったら、さぞや見事だろうな、と思ったほど。石段を登って境内へ入ると、最初に目が行ったのは、有名な天然記念物・五色椿。なんでも七福神という名前なのだとか。
 その七福神を模した土鈴があることを知ったのは、神奈川帰還後。他にも如来様の眉間の亳を模したものもあるそうで、椿の方はちょっぴり悔しかったです。私は旅先であまりあれこれ買い物はしない方なのですが、お守りの類は何だかよく買ってしまう癖がありまして。白亳寺の土鈴は、奈良再訪時には確実に購入したいものの1つです。

 しろらかに 春の夜の赤
 灯しては 濃きも薄きも
 とり/゙\に 匂はす五色の
 老ひ椿 ちぶれえりたる
 きりいしや 階おほひ
 囲へたる 秋の萩をも
 映はせるに 高圓山の
 裾野にそ ひそと響かむ
 土の鈴 南無阿弥陀佛
 その眉間 つね光りをる
 白亳の 宝珠模したる
 面へと 泛かぶ梵字の
 なに諭す 勢ひ離れて
 無為好む 主がゆゑな
 ゆく夏の 真昼ざわめく
 往時知らずに

 光明を宿す土鈴も萩、椿みなまだ知らじていつにまたなむ   遼川るか
 (於:白亳寺)


 「しろらかへ」は春を伴う枕詞。また拙歌中の「往時」は、もちろんですが「皇子」との懸詞です。

 秀歌が秀歌を生む、という意味では、恐らく「万葉集」の中でも屈指の好例示、絶妙なカップリングとして、志貴と笠金村は挙げられる1組でしょう。
 歌は繋がって行きます。誰かが誰かに贈り、誰かが誰かの歌を模して。それはまるで一筋の川の流れのように。そして、私もまた亡母から、讃良から、そして歌の流れの遥か上流にいた数多の歌人たちから、何かを受け継いだからこそ、今日まで。30年の間、詠み続けてきました。
 母の他界後、ようやく私が真剣に歌を詠み始めてすぐの頃時、ある方がこう言って下さいました。
「お母様との歌のリレーですね」

 ...もしかしたら、母はバトンを渡す相手を探していたのかも知れません。だから、あれほどまでに多くを、高きを、私に要求していたのかも知れません。もし、もしそうなのだとしたら...。今、果たして私は、彼女が望んだ次走者たり得ているのでしょうか。もちろん、それは歌に限ったことではなく。
 そんなことを漠然と考えながら、白亳寺の石段を降り始めます。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 白亳寺から再び、新薬師寺へ向けて歩きます。角を曲がって、緩やかな坂を下って。約1km距離の途中。新薬師寺まであと2、300m程度の場所に、ある川が流れています。
 住宅地の中を流れる、コンクリートに囲まれた小さな川。正直、もはや川という風情ではなくて、それはある種の下水と言いますか、本当にその程度にしか思えません。少なくとも一見は。


 が、橋のたもとにひっそり立つ歌碑にさえ気付けば。そして、元々がその知識さえあれば、この川もまた万葉の舞台であることに。しかも、枕詞にすらなっている川であることに。きっと気付けるはずです。
 川の名前は、能登川。「能登川の」はのち、を伴う枕詞です。

|能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも
                         作者不詳「万葉集 巻10-1861」
|能登川の後には逢はむしましくも別るといへば悲しくもあるか
                        橘奈良麻呂「万葉集 巻19-4279」


 歌碑に彫られているのは前者の歌。どうやら当時は水底まで見渡せるほどに澄み渡った水面へ、桜の花びらが風に散らされては浮かび、流れて行っていたのでしょう。...今からでは、凡そ想像もできませんけれども。
 能登川は、春日山と高円山の間の渓流が水源だそうで、御蓋山と高円山の間を西流。白毫寺町や能登川町を流れていきます。何でも、上流の方は今なお川音も軽やかに響き、御蓋山の影を川面に映している場所もあるとか。


 能登川、のち。つまりは流れのより下流を導く枕詞なのでしょう。この大和の地に流れる細い小さな川から始まり、未だに流れ続ける川。白亳寺を訪ねた直後だったからか、私にとっては能登川は、即ち歌の川と思えてしまいました。

 言霊の八十の歌々紡ぎたる草紙
 能登川の後の流れが果てにあるもの   遼川るか
 (於:能登川)


 源。最初のひとしずくは、きっと悠か彼方の太古の昔、昂ぶる感情に呼応するかの如く、歴史に名前すらも残さなかった誰かが、呻くように、叫ぶように、笑うように、歌ったのでしょう。そこから、始まったのでしょう。
 やがて、日々の生活の中、晴れればその温かさを、雨が降ればその潤いを、人々は喜び、慈しみ、そして歌いました。そうして形作られていった古代歌謡は「古事記」や「日本書紀」に収められ、遂に最初の歌が。「八雲立つ〜」が誕生していったのだと思います。そんな各地で生まれた小さな、ちいさなひとしずくたちを集め、最初に強く、しっかりとした流れとしたもの。それが「万葉集」。萬の言の葉を集わせたものです。
 やがて流れはさらに勢いを増し、川幅も広く、水量も豊かになっていきます。「古今集」から始まる21代集、平安期や中世に数多編まれた私家集たち。もちろん、これら貴族社会でのみ歌は隆盛したのではありません。民間の名も無き人々もまた、時々の世相に合わせて時に辛辣に、時に滑稽に、思いの丈を歌いました。

 世相が安定すれば、人は遊び心だって持つゆとりが生まれます。やがて歌は遊戯性を帯びて優劣を競ったり、それとは逆にある種の求道的欲求の対称にもなっていきます。そもそもの心情とは別枠で、先に主題を定めたり、一定期間でどれだけの数を詠めるか、というように。
 また、現代社会風に言うのならメディア・ミックス、となるのでしょうけれど、歌はやがてただ、歌うことだけには留まらず、舞踊を伴い、物語を伴い、より一層のエンタテインメントへと昇華された流れもあるでしょう。
 最初は極めて個人的な性質の強かったものが、独りではなく、場に居合わせる他者と作り上げていく流れも生まれます。座の文芸です。
 そして、様々な要素を加味し続ける時期が過ぎれば、今度はそれを省略し、簡素化する、という表現様式も誕生します。

 和歌、謡曲、俳諧の連歌、そして俳句。現代社会に生きる私たちが、愉しんでいる様々な詩歌は、それでもその源は1つ。ほんの小さなひとしずくであり、細いほそい流れであり...。
「能登川の後の流れが果てにあるもの」
 それは、今なお詩歌に親しむ私たち全員なのかも知れません。







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