前日、終ぞ見つけられなかった島の宮跡。でも、飛鳥駅前の観光センターの方から、草壁が好きならば、と奨められた岡宮天皇真弓丘陵。

 草壁皇子は彼自身に限定するならば、立太子したまま即位することなく持統3年(687年)病死。享年は28歳。
 年表から追いかけると、時は天武の他界から3年。ようやく陵墓の造営も終わり、中継ぎで臨朝称制した讃良に替わって、即位するまさに直前の訃報、ということになります。
 この後の流れは、讃良が翌年に正式即位。のち草壁の他界後6年目に、草壁の息子にして讃良の孫である、軽皇子が15歳で文武天皇として即位。
 それから10年後、文武は25歳で他界。続いて皇位に就いたのが、文武の母・草壁の妻・そして讃良の嫁であった阿閉皇女、のちの元明天皇。
 さらに8年後、元明天皇は譲位して、皇位を継いだのは文武の姉・草壁と阿閉の娘・讃良の孫であった氷高内親王、のちの元正天皇。
 9年後、元正天皇譲位。皇位継承したのは文武天皇の遺児・首皇子、のちの聖武天皇です、大仏建立の。
 25年後、聖武天皇の譲位により、彼の皇女である阿倍内親王が即位。のちに言うところの孝謙天皇。
 そして9年後、彼女の譲位により新たに即位したのは草壁や大津、高市、穂積などと兄弟だった舎人親王(「日本書紀」編纂の総裁)の第7皇子だった大炊王。のちの淳仁天皇です。
 けれども、このたった6年後に孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、6年後の崩御に至るまで草壁の血脈、つまりは讃良が妄執していた蘇我の血脈は、草壁の死後83年、途中6年間のブランク(淳仁天皇)を除けば77年。皇位は実質6代が固持。草壁の曾孫、讃良の玄孫まで、です。

 だからなのでしょう。皇位に就かなかった彼は、それでも贈り名として岡宮天皇、という称号を与えられています。...この知識が無かった私には、思い入れある草壁に逢うには島の宮を探すしかない、と思い込んでいたんですね。
 ...が、岡宮真弓丘陵は草壁の正式な陵墓です。そう、彼が今でも眠っている場所はちゃんとあった、ということです。
 飛鳥資料館を出ると、あれほど蒸し蒸ししていたお天気は、俄かに曇り空。今にも大粒の雨が降り出しそうな中を、岡宮目指して出発します。

 負ひし瑕 違はぬものと
 思ひ沁み ゆゑに逢はむや
 給はむや いかな慟傷しび
 違へども 違はざるらむ
 慟傷しびに 思ひ悩みに
 たしなみに くさはひはなし
 辿りたる 上つ枝をも
 愛向かふ 乙とてもなほ
 その露の 拭ひたきこと
 等しければ いとゞし国母
 さへまたも 違はざるらむ
 手弱きと思ふ

 頼みたきはたれとてことさら曲事せざリ
 たゞ守りて守らまくほしくゆゑがすゑとて    遼川るか
 (於:岡宮へ向かうR169路上)


 「愛向かふ」はおとを伴う枕詞です。

 1000年以上も昔の人に...、と失笑をかってしまうかも知れませんが、本音の部分で草壁には、申し訳なく思っていました。あんなに必死に大津の足跡を追いかけてしまって、肝心の彼への墓参は後廻し。
 でも、だからこそ改めて、たった1歳しか違わなかった、異母兄弟の関係もまた、少しは贔屓目なしに見られるのかも知れません。

 前述していますが、草壁と大津は、他の高市などの異母兄弟とは違って血縁も濃いです。父親が同じなのはもちろん、母親も姉妹、それも同母姉妹ですから。しかも年齢もほぼ同じ。きっと幼少の頃から、それなりに親しかったのではないかな、と手前勝手な想像も膨らみます。

 中大兄皇子が朝鮮へ出征している時、朝廷は筑紫大津宮にありました。白村江の大敗後も、もうしばらく朝廷は筑紫にあり続けましたから、当然皇族はみな筑紫にいました。大海人皇子も、太田皇女も、讃良も。
 なので大津や草壁も筑紫で生まれているわけですし、大津の名前の由来が筑紫大津宮に由来しているのは、言わずもがな。太田皇女と讃良では、太田の方が姉です。大津の名前が彼に授けられるのもまた、何ら不思議ではなく。
 ...生まれながらにして、競い合わざるを得なかったのだろうと思います。

 太田が病死したのは、大津が5歳、草壁が6歳の時(667年)で、この年、朝廷はよやく近江へ遷都。翌年、天智7年(668年)に天智が即位。年号は調べきれていませんが、大海人皇子も続いて立太子しているはずです。
 大化の改新、朝鮮出征、そしてこの後に控えているのは壬申の乱です。まさに時代は激動の真っ只中で、平和を望めばこそ全てを掌握できる権力欲に、人は駆り立てられてしまったのかも知れません。
 事実、弟が立太子ているにも関わらす、天智は息子・大友皇子への皇位継承を望んでしまいます。大友は母親が采女ですから、本来は先ずあり得ないお話なんですけどね。

 そして壬申の乱勃発。草壁も大津も若いながらに参戦、のち平定。...尤も一番の功労者は高市ですが、彼もまた母親の身分が低いですから、渦中には加わらず。
 待ち焦がれていた平和。されど、戦乱の傷跡は生々しく...。さらに人々はようやく手に入れた平和への執着と、それを磐石の体制にするべく自然、それまで以上の思惑を膨らませたのかも知れません。

 太田が既に他界していましたから、皇后におさまったのは讃良です。そして彼女もまた、当然の如く焦がれていたでしょう。穏やかな時代が続くことを。まして皇位にあった天武に至っては、それが最優先の使命です。
 けれどもここに、小さな食い違いが生じてしまいます。それぞれが、それぞれの考え得る範囲で思い描いた平穏な時代の維持。それに対するアプローチが少しずつ、少しずつズレ始めていたのかも知れません。
 「懐風藻」や「日本書紀」などの大津評の数々です。

|皇子大津は天武天皇の第3皇子で、威儀備わり、言語明朗で天武天皇に
|愛されておられた。成長される及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛
|された
                       「日本書紀 朱鳥元年(686年)10月」
|幼にして学を好み、壮に及びて武を愛し、節を降し士を礼び、これにより
|人多く付託す。
                                  「懐風藻」


 一方の草壁ですが、自分でもかなり必死に探したと思います。「日本書紀」を何度も何度も通読したのですが、歴史上の事柄や朝廷の要職にある誰それを見舞った、とか。...彼の人物像については終ぞ記述を見つけられませんでした。

 平和をより磐石なものとする為に、人望厚い大津に皇位継承を。天武はそう望んでしまったのかもしれません。
 平和をより磐石なものとする為に、後々の厄災の火種とならぬように、本来あるべき世襲制の徹底を。讃良だって、最初はそう考えていたのかも知れません。
 同じ目的。同じ望み。でも、それぞれの価値観やプライオリティが一致していないと、最終的な方法論は、全く異なるものになってしまうのは、時代がいつであろうと、事の大小は問わずに、みな一様です。
 そして、天武は病に倒れます。

 それでは、当の本人達はどうだったのでしょうか。彼らとて壬申の乱は経験しているのですし、6皇子の盟約にも加わっています。草壁も、大津も、平和を望んでいなかった筈はないでしょうし、本当に大津に謀反の意思などあったのか。
 私にとっては、ここが最大の関心事でした。

 今回、旅行に当たって、改めて「万葉集」を斜めに読み直してみたのですが、ちょっとショックなことが幾つかありました。
 大津は、その歌才は承知していますし当然、歌も殆ど知っていたのですが、問題は草壁です。...採られていない、と思い込んでいました、「万葉集」には。
 確かに、草壁皇子では採られていません。が、日並皇子としてたった1首だけ、ちゃんと草壁の歌も「万葉集」には収められていました。そして、彼には思い入れはあれど、歌を読んだのは初めてで一読、判ってしまいました。十市と同じです。言いたくはないですが、巧みとは、どうにもこうにも言い難く...。

| 日並皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首 女郎、字を大名といふ

|大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや
                          日並皇子「万葉集 巻2-110」


 「愛しい大名児のことは、遠い野で刈る草のひと束のように、束の間たりとも忘れなどしない」

 そして、さらに思ったこと。「万葉集」を主に編纂したと言われている大伴一門も、随分と酷いことをしたものだ、と...。

 話は少しごちゃごちゃしてしまいますが、先ずは大前提として、「万葉集」に名前が登場する人物に、石川娘女(石川女郎)という女性がいます。ですが、この全てが同一人物ではありません。細分化して並べるなら、最大で7人。恐らくは、中には同一人物であるであろう者同士も存在しているのでしょうが。
 整理・列挙してみます。

○石川娘女:A
 伝未詳、誰だか判りません。久米禅師との相聞歌2首が残っています。
|み薦刈る信濃の真弓引かずして強ひさるわざを知ると言はなくに
                           石川娘女「万葉集 巻2-97」

○石川娘女:B
 大伴安麿の妻、坂上の母親です。2首採られています。
|春日野の山辺の道をよそりなく通ひし君が見えぬころかも
                          石川娘女「万葉集 巻4-518」

○石川娘女:C
 藤原宿奈麿の妻。1首のみ採られています。
|大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里
                         石川娘女「万葉集 巻20-4491」


 恐らく、ここまでは全員別人です。歌風もかなり違いますし、やりとりの相手や、時期、左注・題詞に拠れば先ず間違いないでしょう。...問題は、残る4人です。

○石川娘女:D
 山田郎女とも言う。大津皇子の宮の侍女(らしい)。「万葉集」には3首採られていて、全て大伴宿奈麿に贈った歌です。
|古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと
                           石川娘女「万葉集2-129」

○石川娘女:E
 詳細は不明。2首採られています。相聞の相手は大伴田主です。
|我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし
                           石川娘女「万葉集2-128」


 この2人に関しては後述する石川娘女と同一人物説があります。...が、取り敢えず彼女たちが詠んだ歌そのものは、お話の流れに関係がないので、ここでは一旦除外します。

○石川娘女:F
 詳細は不明。1首のみ採られていて、相聞の相手は大津です。

|あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに
                         大津皇子「万葉集 巻2-107」
|我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを
                          石川娘女「万葉集 巻2-108」
|大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し
                          大津皇子「万葉集 巻2-109」


 「愛しい人を待っていて山の雫に濡れてしまいました/大津」
「私を待っていてくれている、あなたを濡らすその山の雫になりたい/石川:F」
「津守の占いで露見することは判っていたが、2人は一夜を共にしたんだ/大津」

 このやり取りで判る通り、石川娘女:Fと大津は恋仲です。ただし、身元が不明。因みにこの石川:Fは、石川:Eや、大津の宮の侍女であった石川:Dと同一人物説があります。そして、歌風や、「万葉集」での歌番号など、3人とも同一人物とするのには無理がない気がします。個人的にも3人は同一人物であろう、と。...かなりな恋多き女、だったらしくも思ってしまいますが。
 そして、最後の1人です。

○石川娘女:G
 大名児という別称あり。歌は「万葉集」に採られていません。...が、草壁(日並皇子)が彼女に歌を贈っています(前記「大名児を〜」)。採られていない以上、当然ですが返歌の形跡はありません。石川:Dとの同一人物視されています。

 おさらいします。石川:G(草壁に想われている大名児)=石川:D=石川:F(大津と恋仲)。...かなり下世話な書き方で恐縮ですが、こういう図式が成立します。勝手な解釈では、「万葉集」に名前が登場する石川娘女7人は、実質は4人。石川:D〜Gは、全て同一人物だ、と考えていますし、つまりそれからすれば、大津と草壁が皇位だけでなく、恋愛でもライバルであった、ということになります。
 さらには「万葉集」での歌番号を見れば一目瞭然ですが、
『大津→石川(#107)、石川→大津(#108)、大津→石川(#109)、草壁→石川(#110)』
 とご丁寧に並べ立てられていまして。...正直、3人の恋の行方はもちろんですが、大津の歌と草壁の歌が並ぶのは、かなり厳しいと思ってしまいます。

 大津。もし、彼が姉・大伯が斎宮に卜定されたことも含めて、幼くして母親を亡くしたことによる、ある種の鬱屈としたものを抱えていたならば。文武両道に秀で、人望厚く、けれどもどれほど努力し、しかもそれを人々が認めてくれていたにも関わらず、それは所詮言葉だけのものに過ぎず...。払った努力に適うだけの「実」が得られないことに、虚無感を抱いていた、とするならば。

 でも偶々、鬱屈の原因とも言えるライバルと同じ相手に恋をして、そこでは勝者になれた、という状況を考えたなら...。「大船の〜」の歌を堂々と詠んだ彼の気持ちが、私にはようやく手繰れる気がします。
 草壁のように、非凡な親のもとに生まれた平凡な子の気持ちは、私自身が骨身に沁みて知っています。ですが同時に、大津のように努力して、努力し抜いても、応分の評価が得られない虚無感もまた、私自身が骨身に沁みているわけで。

 ...どうせならば、中途半端にできなければいい、と思って来ました。出来なければ、自分で自分に見切りをつけて、また違う頭で現実と対峙できたでしょう。けれども、もう少し。もう少し努力すれば、叶うのではないか。...そう思ってしまいたくなる射程距離内に常にいられてしまったことが、個人的には最大の苦しみでした。
 いつまで経っても白旗は掲げられませんでした。諦められませんでした。無理して、無茶して、でも最後はそこそこならば出来てしまう。だから常に身構え、全力投球して、遣り過ごしたり、受け流したりなど、できる筈もありませんでした。

 立太子していた草壁の想い人との関係を公にする。これは、もはや謀反の意思あり、と世間に見られても仕方がありません。それなのに...。にも関わらず大津はそれをやってのけました。
 後世の人は、問題の歌を指して彼を豪快な人柄、と言います。ですが、個人的にはそれほど単純なお話なんだろうか、と疑問を感じずにはいられません。私には、あの歌が大津の魂の叫びのように思えてならないのです。

 引用歌一括で。「大船の」は津守、「大き海の」は水底(心の底)、を伴う枕詞です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 どうも、栓のないことばかり、あれこれ考えていたからでしょうか。もっと簡単に行ける道があったにも関わらず、何だか大きく迂回してしまいました。聴いていた90分テープの片面が終わってしまったのですから、随分と道草をしてしまったようです。


 途中で雨も降り始め、岡宮へ着いた時には土砂降りでした。傘は持っていなくて、びしょ濡れになりながら、既に薄暗くなり始めた陵墓をお参りしました。
 岡宮天皇真弓丘陵は、周囲に畑や田圃が多い、長閑な丘陵地帯の一画。周囲に溶け込んでしまうほど、さり気無く佇んでいて。

 

 複雑な気持ちになっていました。結局、この日は後半、ずっと頭の片隅で大津のことが引っ掛かっていて、長年傾けていた草壁への同病相憐れむ、とでもいうべき思い入れは、すっかり...。
 歌も記述も、草壁に関するものは、とにもかくにもかく少なく、結局の処、肝心の草壁自身はどんな思いを抱えて暮らしていたのか、という点については、もはや想像に頼るしかありません。
 ただ、島の宮でも書きましたが、彼に寄せられた多くの挽歌が、それでも温かい人だったのだろう、と教えてくれています。

|天地の 初めの時
|ひさかたの 天の河原に
|八百万 千万神の
|神集ひ 集ひいまして
|神分り 分りし時に
|天照らす 日女の命
|天をば 知らしめすと
|葦原の 瑞穂の国を
|天地の 寄り合ひの極み
|知らしめす 神の命と
|天雲の 八重かき別きて
|神下し いませまつりし
|高照らす 日の御子は
|飛ぶ鳥の 清御原の宮に
|神ながら 太敷きまして
|すめろきの 敷きます国と
|天の原 岩戸を開き
|神上り 上りいましぬ
|我が大君 皇子の命の
|天の下 知らしめしせば
|春花の 貴くあらむと
|望月の 満しけむと
|天の下 食す国
|四方の人の 大船の
|思ひ頼みて 天つ水
|仰ぎて待つに いかさまに
|思ほしめせか つれもなき
|真弓の岡に 宮柱
|太敷きいまし みあらかを
|高知りまして 朝言に
|御言問はさぬ 日月の
|数多くなりぬれ そこ故に
|皇子の宮人 ゆくへ知らずも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-167」
|ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
                        柿本人麻呂「万葉集 巻2-168」
|あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-169」


 「春花の」は貴くあらむ、「望月の」は満しけむ、「大船の」は思ひ頼む、「天の水」は仰ぎてまつ、「さす竹の」は宮、をそれぞれ伴う枕詞です。

 人麻呂は、年表と照らし合わせるなら、この草壁への挽歌(反歌を伴う)を引っさげて「万葉集」へ登場したことになります。この時、一緒に詠まれた草壁の舎人たちの挽歌は島の宮で引用したので割愛します。


 この歌の中で、引っ掛かるのは「〜つれもなき真弓の岡」という件です。つれもなき、つまりは由縁もなき、という意味になります。この点は実際に行って見て判りました。草壁埋葬時、既に葬られていた天武の陵墓(天武・持統陵)から、いやに距離があるんですね。
 泊瀬山がそうであったように、天武・持統陵のある桧隈の里も、また葬送地でした。欽明天皇陵や、有名な高松塚古墳、キトラ古墳、文武天皇陵、とまさに皇族か、それに類する身分の人間を葬る王陵の地です。なのに、草壁は桧隈へは葬られませんでした。直線距離にして4kmは離れているそうです。

 ...もしかしたら、草壁は皇族に生まれた事を、どこか疎ましく思っていたのかもしれません。病弱で、本当に平凡で、朴訥とした恋歌をそっと贈った彼には、皇族という軛は重すぎたのかも知れません。だから、敢えて王陵ではなく...。
 そんな風に讃良が配慮したのだとしたら、ほっとできそうな気がしています。

 遠白き母刀自ゆゑに打詫ぶらむや
 したるしき皇子 大君いざ休み給へ    遼川るか
 (於:岡宮天皇真弓丘陵)








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