親と子。恐らくは、常に私の中にあった視点で、ここに至るまでの万葉巡りもまた、ベースにあったのものは親子と、それとは関係のない「個」としての自分だったと思います。 けれども、親子とは別の視点を持てば、「万葉集」はまた様々に応えてくれる、とも思っています。 古代史を語る上で、必ず囁かれる名前が2つあります。悲劇の皇子として。有間皇子、大津皇子。有間に関しては、その足跡の主だった舞台は和歌山県になるため、今回の旅行では、最初から除外して考えていました。...が、大津は違います。 奈良、吉野、飛鳥、泊瀬、山の辺の道、といった滞在中の目的地のごく近くに、大津の足跡が追いかけられる場所は確実に存在していましたし、それは自分でも判ってはいたのですが...。 亡母は大津が好きでした。豪快で裏表がなかった、という人柄。残した歌や漢詩から伺える誉れ高い才。きっと、親の視線からすれば大津はやはり、小気味よいほどに好ましい存在なのでしょう。 私は草壁が好きでした。十市皇女が好きでした。そして、大津に対しては何処か縁遠いものが、いや。本音で言ってしまえば、純粋な嫉妬のようなものが、きっとあったのだろうと思います。 なので大津の足跡を辿る、などという考えはこれっぽちも無かったですし、仮に浮かんだとしても、その端から自ら打ち消していただろう、とも思います。 海石榴市跡を離れ前日、時間の関係で翌日送りにした、飛鳥資料館へ向かう途中でした。近鉄とJRの桜井駅付近を走っているとき、ふと。何の前触れもなく思い立ってしまいました。磐余の池、吉備池、稚桜宮の跡...。 全て大津に関わる場所です。 行ってみようか、少し飛ばせば時間的にも、距離的にも、それほど無理ではないし...。正直、自分でも驚きましたけどね。一体、何だってこんなこと考えているんだろう、と。 でも、ひとたび興味が湧き出すと、何だか居ても立ってもいられなくなりました。橿原の宿に泊まるのはこの日が最後。最終日の5日目、予定の殆どは奈良市内でのものであって、恐らくは行けるとしたら、今回の旅行ではこの日が最後のチャンスでした。 左折するつもりだった国道165号、阿倍の交差点をそのまま直進しました。覚える気などなかった筈なのに、いつの間に空で言えるようになっていたのか、亡母が生前、 「何度読んでも、真っ直ぐないい歌だね」 と言っていた歌が、何故かふと口を衝いて洩れていました。 |経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね 大津皇子「万葉集 巻8-1512」 向かった先は、大津が自害に臨んで泣きながら絶歌を詠んだ、と言われている磐余の池。といっても、すでに池自体はなく、正確な場所もまた、特定されていません。天の香具山と御厨子観音が建つ丘と、そしてお隣の桜井市の稚桜神社の丘、という3つの高台に挟まれた一帯の何処か、とだけ聞いてはいましたが...。 行ってみたらそこは、田圃。ただ広がる一面の稲の波には、しばし呆然とさせられてしまいました。これでは、磐余の池の跡など探せそうもありませんから。 取り敢えず、持ち歩いていた数冊の資料の中で、確実に名前が判っている場所から、時間が許す範囲で潰していくことにしました。先ずは御厨子観音です。 そもそも、磐余という土地は第17代履中天皇の磐余稚桜宮など、歴史上複数の宮が築かれた、といわれています。といって、現段階ではそれらの跡は未だに不明で、候補地として名前が挙がっているのは、前述の桜井市は稚桜神社の丘周辺と、同じく桜井市の谷地区にある若桜神社周辺だそうです。 但しそれも、あくまでそう推測されている、というだけで何かが発掘されたわけではないですし、第一、私が訪ねたいのは大津の足跡であって、宮跡でもなく。 ただ、これら関連推測地をある程度、一望にできそうなのが御厨子観音だったわけで、観音様へのご挨拶もパスして高台へ。 見渡す限りの青田。手持ちの資料によると農耕関係の方々がこの一帯を殊更、湿潤な地質だ、と仰っているらしく、かつては池ではなかったのか、という期待が勢い勝ります。 偶々、墓参にいらしていた地元のお爺ちゃまに、少し訊いてみました。磐余の池跡と大津縁のもう1つの場所である吉備池の所在を。するとにっこり笑ってくださって 「大津皇子がお好きなんですか? それでわざわざ? 私も好きなんですよ」 ...曖昧に誤魔化しながらも、少し胸が痛みました。 曰く、橿原市と桜井市の境を流れる戒外川沿いに、磐余の池跡と言われている場所がある、とのこと。また、吉備池に関しては桜井市吉備地区の春日神社の南側で、こちらは歌碑もあるとのことでした。 お礼もそこそこに移動しよう、とする私にお爺ちゃまは追っ付けでもう一言。 「お隣の御厨子神社も行って御覧なさい。ちょうど、磐余の池のほとりにあたる場所だっていうから」 駐車場へは行かずに、御厨子神社への登り口を探します。が、あるのは何と言うのか、獣道のような薄暗い道が1つ。半信半疑で登っていくと、確かにお社があります。ありますが、もはや廃社とでも言うべきなのか...。案内によると、どうやらここは第21代清寧天皇の磐余甕栗宮の跡らしく、社名も古くは磐余池の尻辺に位置する、ということから水尻神社、と言ったようです。 |
何となく、頭の中で磐余の池のイメージが掴め始めていました。御厨子神社がほとりに位置する、と言うこと。茫たる田圃が池そのもので、戒外川沿いに池の跡、とされる場所がある。つまりは御厨子神社の対岸にあたるほとり、ということでしょうか。 池の東西のほとりが推測できた処で、今度は南北。恐らく北は吉備池のあたりで、南が御厨子神社と戒外川を結ぶ線上あたりなのではないか、と勝手に想定しました。ロードマップに赤ペンで想像する磐余の池をかいてみます。かなり大きな池になりました。 戒外川沿いにある、という磐余の池跡は殆ど位置が掴めていない状態だったので、確実な吉備池を最終目的地として、やや徐行しながら移動開始。 そして辿り着いたのは、吉備池廃寺の西側の堤。有名な大津の辞世の歌が石碑になって立っていました。 |
|百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子「万葉集 巻3-416」 「百伝ふ」は磐余を伴う枕詞です。 さらに、それほど離れていない場所に見つけたのが、大津の同母姉・大伯皇女の歌碑です。 |
|うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む 大伯皇女「万葉集 巻2-165」 私にとっての「万葉集」、それも万葉2期に関するなら、やはり讃良を中心に切り取ってしまうものなわけで、さらにはそこに草壁という存在が、讃良の影の部分を埋めるかのように私の視界を固定してきました。 けれども、当たり前のことですけれど、その定点視界の外側にも万葉人の喜びや哀しみは溢れています。 親に拘り、子に拘りしてきた私にとって、ふと気がついたもう1つの切り口。それは、同母のきょうだい。大津と大伯、讃良と太田皇女。すぐに思い浮かぶのは、この2組くらい、ではありますが、何れも大津の悲劇に連なるきょうだいです。 大化の改新前、石川麻呂が中大兄皇子に嫁がせた遠智娘。彼女は娘を2人産んでいます。讃良と太田皇女です。そして、2人は揃って大海人皇子、のちの天武へと嫁ぎます。姉・太田皇女には子供が2人いて、大伯皇女と大津なのですが、幼い2人を残して彼女は他界。一方の妹・讃良には子供が1人。草壁です。 恐らく、母親の出身身分で皇位継承順位が決まっていた時代ですから、もし。もし、太田皇女が夭折さえしなければ、大津が立太子していたことでしょう。でも、歴史はそう廻らなかった。太田皇女が若くして他界した時点で、大伯と大津の運命は決まってしまったようなものです。 事実、大伯は第10代の伊勢の斎宮に任命されていて、この当時、殆どの場合、斎宮は天皇の未婚の娘で、しかも身分が低いか、父親の寵愛が薄い者が選ばれていました(形式上は占いに拠る)。 やがて、壬申の乱を経て天武が即位。彼の正式な皇后となったのが讃良ですし、皇位継承権は草壁の側へ。それが果たして大津にとっても、草壁にとっても良かったのかは判りません。個人的には草壁はきっと、苦しかったに違いない、と勝手に思い込んでいますから、できることなら太田皇女が長生きして、そして大津が立太子していれば...。そんな風に思ってもしまいます。 が、もし歴史がそうなっていたならば、少なくとも「春過ぎて〜」の歌はなく、私もまた、こうして大津の足跡を辿る為に、あちこちを走り廻っている筈はありえないわけで...。 大伯の歌は悲痛です。若くして伊勢の斎宮におさまり、他の万葉人のように男女間の恋歌など皆無な大伯は、たった1人の弟への深い愛情を込めた歌ばかり6首、「万葉集」に残しています。 |我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし 大伯皇女「万葉集 巻2-105」 |ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ 大伯皇女「万葉集 巻2-106」 大津は自らの立場を自覚していました。だからなのでしょう。天武他界の少し前に彼は自ら大伯を訪ねて伊勢へ出向いています。そして、待ち受けている運命を承知で再び大和へと帰っていく弟に、姉は詠います。 「大和へ帰る弟を気遣っているうちに、夜が更けてすっかり私は立ち濡れてしまった」 「2人でも険しい秋の山越えを今頃、弟はどうやって独り越えているのだろう」 大津が大和に戻ってすぐ、天武崩御。その1ヶ月後に大津は謀反の角で謹慎の身となります。そして翌日「百伝う〜」の歌と「懐風藻」に収められている漢詩 |「臨終一絶」 |金烏臨西舎 太陽が西に沈んでいく |鼓声催短命 太鼓の音が残る命の短さを兆す |泉路無賓主 黄泉への道には主も客も無い |此夕離家向 今晩、家を離れて私は向かう(意訳:遼川るか) 大津皇子「懐風藻」 を残して自害。その後、斎宮を退下して、伊勢から上京した大伯は |神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに 大伯皇女「万葉集 巻2-163」 |見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに 大伯皇女「万葉集 巻2-164」 「伊勢にいれば良かったものをどうして大和へ帰って来てしまったのだろう。弟はもういないのに」 「弟はいないのに、どうして戻って来たのか。悪戯に馬が疲れるだけなのに」 と嘆き...。そして、二上山に大津が葬られたあとは |磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女「万葉集 巻2-166」 「現世に生きる私はあの二上山を、明日から弟と思って眺めるのだろうか/前記「うつそみの〜(歌番号165)」」 「磯のほとりに生えていた馬酔木を手折ろうと思ったけれど、見せる弟はもういないのに」 と残して、「万葉集」から名前が消えます。歴代の伊勢斎宮が、退下の後、いち女性として嫁ぐことは珍しくありません。大伯の後を継いで第11代斎宮となった多紀皇女は、後に志貴皇子へ嫁ぎ春日王を。第13代斎宮の田形内親王は後に六人部王に嫁ぎ笠縫女王を。それぞれ産んでいます。また、少し時代を下って第17代斎宮となった井上内親王に至っては、後に白壁王へ嫁ぎ、白壁王が光仁天皇として即位した為、皇后にまでなっています。 ...が、大伯は41歳で他界するまで、終ぞ誰にも嫁ぎませんでした。いや、正確には、大罪を犯した弟の姉、というレッテルのもと、誰にも嫁げなかった、というのが正しいのだと思います。 私は多分、大伯や大津について、敢えて何も見ないようにして来た気がします。見てしまえば、そこに浮き上がる讃良の策謀を認めなければならないですから。...大津謀反は、彼女が仕組んだものであった、という。 余談になりますが、大津の謀反は、大津の盟友と言えるほどに親しかった川嶋皇子の密告という形で発覚しています。吉野で結ばれた6皇子の盟約に、加わっていた天智の息子です。 大津の死後、川嶋には裏切者、盟友を売った、などの悪評が定着し、遂に濯がれることはなかったように記憶しています。そして事件の5年後に他界。享年は35歳。偶然なのでしょうか。その10年後には、川嶋の同母妹の泉内親王が第12代の伊勢斎宮に卜定されていた筈ですし、僅か半年で退下した後の人生についても杳として知られていません。 でも、ここにも同母きょうだいが辿った悲運があります。讃良という一滴の雫が生み出した波紋の果てたち。 何故、突然大津や大伯の足跡を辿りたくなったのかは、今でも判りません。甘樫丘で国見を済ませ、亡母との約束が果たせたからか。雲梯の杜で、自分なりの贖罪を遂げられたからなのか。 だから、非凡な母と平凡な子供、という図式の外側にも、目を向けてみる気になれたのでしょうか。...それもまた、違うような気がしています。 空蝉のむなしきものは勢ひほりす 人、政ゆし軽き息の緒なるに 遼川るか 子は子にてかそいろ選りえざるものと 越ゆるに散りし露の命も 遼川るか (於:吉備池廃寺) 引用歌と一括で。「神風の」は伊勢を、「空蝉の」はむなしいを、伴う枕詞です。 吉備池廃寺の後、春日神社にも行ってみました。大津が残した漢詩の石碑が、木漏れ日の中、何処か寂しげに佇んでいました。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 何となくぼんやりと、のそのそ車にエンジンを掛けていた処、携帯が鳴りました。会社からでした。この旅行中、会社からは日に数本、指示を仰ぐ電話が入っていたのですが、これも同様。 「帰ったら、私がやるからうっちゃいといてね。急ぎじゃないんでしょう?」 いい加減なものです。けれども、この時になって気付いたのが時間...。既に3時を廻っていました。少なくともこの後、飛鳥資料館に行って、最後には岡宮まで行かなければならない、というのに...。 奈良入りした日から前日までは、涼しいくらいだったお天気も、何だか少しずつ暑さを取り戻し始めているようで、運転中は酷く蒸しました。 資料館の扉を開けた時、ふと気付きました。冷房...。そう言えば、奈良入りしてから、殆どお世話になっていませんでした。 秋の昼隔てゝ淀む資料館 遼川るか (於:飛鳥資料館) ひんやりした資料館の中、時間の関係でとにかく必須のものだけを重点的に見学。先ずは何より、明日香村全体のジオラマです。前日の明日香では、さほど迷いこそしませんでしたけれど、正直、全体の位置関係は殆ど頭に入っていませんでした。だから、ジオラマ。 展示されているジオラマ眺めていると、国見した風景が蘇ってきました。 万分の一の国見や天高し 遼川るか (於:飛鳥資料館・明日香村のジオラマ) 自分が周った順路を指差し確認しながら辿り、ようやく少し全体像が掴めた気もして来ます。続いて山田寺跡から発掘された、東回廊を復元したものを。 ...これには、正直息を呑みました。 人麻呂公園で復元されていた狩りの宿舎にしても、朱雀門にしても、何だかあまりに今様なもので、何処となく空々しいというのか、当時の息吹が伝わってくるような雰囲気は、少なくとも個人的には皆無でした。 が、山田寺東回廊は違います。部分々々に現代の物質が欠落を補ってはいましたが、1000年以上地中に眠っていた柱や梁が、当時の空気を静かに静かに吐き出しているような気すらしてしまいました。 |
この回廊を讃良が何度歩いたのでしょうか。人麻呂もいたかも知れません。草壁の遺児・軽皇子、のちの文武天皇や、草壁の妃だった阿閉皇女、のちの元明天皇も、軽皇子の姉・氷高内親王、のちの元正天皇、といった所謂、讃良ファミリーならば、確実に歩いたのではないか、と思われます。 不比等もいた確率は高いです。大伴旅人はどうでしょうか。高市や穂積は、疑うまでも無い気がします。 奈良旅行。目的は色々ありました。亡母が私を産んだ年齢に自分がなった今年、一旦きちんと気持ちの整理を付けたくなっていました。 俳句を始めた関係で、まるで過去、海外に出る度に日本の良さを実感させられた感覚にも似て、否が応でも再び覚え始めていた歌の魅力。改めてそれも、きちんと整理したくなっていました。 そして、憧れや空想や、加速度的に美化されてゆく記憶...。そう言ったあらゆる虚構と、その奥に潜む事実と。それらを見据えてみたい、とも思っていました。 実から虚、虚から実。それぞれに表裏一体のごとく絡み合う中、視点を換えれば、変質こそはしなくとも、それでも広がる実がありました。誰もが頼る歴史の流れは、されど虚構でもあることを、改めて実感しました。 天の香具山を指差した時。夢のわだを眺めた時。目を凝らして仏足跡歌碑を読んだ時。三輪山と同じ稜線を描いていた箸墓古墳...。 へうりとふ ものいたづらに 覚ゆるか うつしこそにそ あきたるれ たゞ菖蒲草 仮初めに けならべつるて 月頃も 打ち交はしては 白雪の つまば辿らゆ いまこそまさし あくがれも僻覚えをもあいしふも手繰り織り上ぐ 綾の錦に 遼川るか (於:明日香資料館) 「菖蒲草」は仮を、「白雪の」は積むを、それぞれ伴う枕詞です。 本当はもっとじっくり見学したい、と思っていました。でも、もう時間切れで。購買部で明日香に関する資料を2冊購入。それを見ながら岡宮へ向かいます。 |
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