飛鳥に限らず、日本に限らず、古代の人は何故か石と親しかった気がします。記者時代の取材と個人的な旅行で歩いた国は40ヶ国弱になりますが、地層的に石があまり産出できない土地はともかく、それ以外では何処へいっても巨石文化の名残や、神格化された石に巡り会いました。そして、それは奈良でも同じ。

 飛鳥に残る謎めいた石、色々とあるようですが今回の旅行で一瞬でも目に出来たのは亀形石、酒舟石、亀石、そして後述する橘寺の二面石でした。あとは石舞台も横目で見つつ、という感じでしたか。
 とは言え、造形美に余り興味が湧かない、ということは裏を返せば体温の感じられないものには、余り興味がない、ということでして。体温が感じられる逸話が残っているのなら、話は別ですが。
 なので、目的地のリストへも最初から全て除外していました。

 出発前に、念の為と万葉集検索データベースソフトを「石」というキーワードで走らせて見た処、殆どは石見・明石などの地名と、枕詞の「石走る」や「石上」で、何となく古代人の石に寄せていた思い。その断片だけでも、垣間見られそうなものは1首のみ。

|なゆ竹の とをよる御子
|さ丹つらふ 我が大君は
|こもりくの 初瀬の山に
|神さびに 斎きいますと
|玉梓の 人ぞ言ひつる
|およづれか 我が聞きつる
|たはことか 我が聞きつるも
|天地に 悔しきことの
|世間の 悔しきことは
|天雲の そくへの極み
|天地の 至れるまでに
|杖つきも つかずも行きて
|夕占問ひ 石占もちて
|我が宿に みもろを立てて
|枕辺に 斎瓮を据ゑ
|竹玉を 間なく貫き垂れ
|木綿たすき かひなに懸けて
|天なる ささらの小野の
|七節菅 手に取り持ちて
|ひさかたの 天の川原に
|出で立ちて みそぎてましを
|高山の 巌の上に
|いませつるかも
                          丹生王「万葉集 巻3-420」


 「なゆ竹の」はとをよる子ら、「さ丹つらふ」は君、「こもりくの」は初瀬、「玉梓の」は手紙を届ける使者である人、「天雲の」はそく(別れ行く)、「木綿たすき」は懸く、をそれぞれ伴う枕詞です(一般的なものは省略)。

 石田王、という未伝承の方が亡くなられた時に、同じく未伝承の丹生王(恐らくは石田王の妻)という方が残したものです。内容的にはごく一般的な挽歌なのですが、ここに出て来る石占い。一緒に出て来ている夕占は、夕方の辻に立って、通りすがりの人から掛けられる言葉で吉兆を占うもの。そして肝心の石占いは、石を蹴ったり、持ち上げたりして吉兆を占うものだそうです。やはり、少なくとも石に何らかの霊験は、感じていたようですね。
 そして、それは実際に観てみると、何となく判る気も少し...。特に自転車で通り過ぎただけの亀石は、何だか妙に雄弁に感じ、一瞬、見透かされるような一瞥を浴びせ掛け、再び明後日を向いて沈黙してしまったようで。


 思わず自分に何か疾しいところはあったかしら、と考えてしまいました。

 もだをもてなに語らむや磐石ら のちの世人の随のまに/\   遼川るか

 秋の聲もの言いたげな石妖し    遼川るか
 (於:亀形石・酒船石・亀石・橘寺の二面石など、奇石群を見て)


             −・−・−・−・−・−・−・−・−

|この日雨が降って、庭には溢れ流れる水が一杯になった
                       「日本書紀 皇極4年(645年)6月」


 梅雨の雨が降りしきる中、蘇我入鹿が三韓朝貢という儀式の為に飛鳥板蓋宮へ参内します。予定されていた手筈では、先ず「俳優/わざおき」が入鹿を笑わせて剣を外させ、石川麻呂が上奏文を読み上げている間に、朝廷の防衛と軍事を司っていた葛城稚犬養連網田と佐伯連麻呂が飛び出し...。
 宮の外では、中大兄皇子に命じられた靭負の司が、飛鳥板蓋宮の12箇所ある門を固めていました。

 かつて、崇峻天皇を宮中で暗殺した馬子のやり方を、同じく真似るように中大兄皇子と中臣鎌足の練り上げた計画は、けれども遅々として計画通りに進まず、次第に異様さを呈し始めた空気に、入鹿自身も気付き...。
 もはや、計画が頓挫するやもしれない、その刹那。中大兄皇子自らが入鹿の頭と肩を切りつける。続いて佐伯連麻呂も切り付ける。居合わせた天皇、貴族、官僚たちの、その目の前で。
 全てが終わったあと、入鹿の亡骸は、雨で水溜りが溢れていた、程近い広庭に放置され、粗末な筵を被せられただけだった...。

 「日本書紀」はこう語っています。そして翌13日。甘樫丘に兵を構えて、同じく飛鳥寺に陣営を張った、中大兄皇子と対峙しようとしていた蝦夷も、勝ち目のない事を悟って館に火を着け、「天皇記」「国記」など、様々な宝物と一緒に自決。但し、一部離反者が出た為に、それでも「国記」だけは何とか取り戻せたそうですが。
 その翌14日、譲位・孝謙天皇即位。12月には都は一旦、難波長柄豊崎に遷都。既に元号が変わっていた翌大化2年(646年)、大化の改新の詔が発布。ここに、大化の改新は達成されます。

 どんなに歴史に興味がない方でも、恐らくは知らない筈のない「大化の改新」の舞台となったのが、飛鳥板蓋宮。現段階までの発掘調査では、確たる証拠がつかめていない為に、あくまで飛鳥板蓋宮伝承地、となりますがともあれ、紛うことなき歴史の舞台は、やはり静かで長閑で「日本書紀」に記されている凄惨な光景など、どうやっても思い描けない場所でした。

 それまでは茅や草葺だった屋根が、板葺に替わったが為の、呼び名なのでしょうが、この宮殿跡地が使われていた期間は、14年。途中、難波への一時遷都などもあって、実際にはたったの8年だったといいます。
 にも関わらず、そのあまりに短い期間に蝦夷・入鹿の滅亡、石川麻呂の変など重大な事件を経て、最後は火災によって捨てられた都です。

 八つの歳 たゞそのゝみの
 うちひさす 宮は刻みぬ
 勢ひの 歴史厚けき
 あえしては 競ひし覇ゆゑ
 またあえし 人は手弱き
 いらなしき みな見据ゑたる
 葦の節間

 編まれては美しき流れのかつての書 継がまくほしき床のしづくを  遼川るか
 (於:飛鳥板蓋宮伝承地)


 大化の改新に関して、私がつい感じてしまうのが飛鳥寺でも書いた「日本書紀」に対する微かな猜疑です。あの手の歴史書にしては凡そ似つかわしくないほどドラマチックに綴られた史実に、ただ違和感だけが募ってしまいます。

 こちらもやはり、特別な思い入れがあった訳ではなく、ただ通りすがりに立ち寄った場所ではありましたが、やけに大きな井戸の跡が印象的で、それが何の為のものだったのか。一説に禊、一説に飲料水などなど、色々と取り沙汰はされているようですが、個人的には禊。もっと言ってしまうのなら、かつて宮中の床に零れ、溢れた血溜まりや、人々が浴びた返り血を。洗い流す為のものであったのなら、古代史の英雄たちにもまた、少しの人間臭さが感じられる気もします。

 それ/゙\に 頼みし思ひ
 とりしあだて なべてよこざま
 みなゝほし 洗ひ浄めて
 濯ぎては 流せし血潮
 それさへも つくり磨きし
 波雲の さも美しき
 ことにせし しけこし霊が
 陰こそを いつ解からるれ
 違はずに 負ふ手弱さと
 いふ物狂ひ

 贖ひの期すも期さずも違ひ得ぬ たゞにそ生くるかぎりがさかし  遼川るか
 (於:飛鳥板蓋宮伝承地・大井戸跡)


 「波雲の」は美しい、を伴う枕詞です。

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

 非凡で偉大な親と、人並みの子。あらゆる世代間闘争の中でも、極めて根源的というか、よくある話なのですが、そこに何らかの継承、という目的が加わると、より一層ヘビィなのではないかな、と思ってしまう平凡な子供の1人である私。
 さらに、同世代に優秀な好敵手がいて、でも親の威光の為にあくまで自らが尊ばれたりしたら...。身の置き所なんてないかもしれず。
 十市皇女も、それなりに思い悩んだでしょうが、かかる重圧に窒息寸前だったのではないかしら、と邪推も同情もしたくなってしまう人がいます。

 草壁皇子。父は天武、母は讃良。同世代には高市がいて、大津がいて。高市に関してはそれほど問題はなかったでしょうが、大津の存在は正に脅威だったと...。
 そして偉大な母は、壬申の乱を経たからこそ、あくまで天武直系の血脈を。さらには、すでに絶える寸前の蘇我の血脈を。半ば妄執するかの如く後世へ繋ぐことだけに拘り...。結果、最大の邪魔者である大津を反逆者として自害へ追いやりました。
 草壁は、苦しかっただろうな、としみじみ感じます。生まれつき病弱で、「日本書紀」に詩賦の才は大津より始まる、とまで称された異母弟・大津に比べれば、確かに才長けてはいなかったのかも知れませんが...。
 でも、それでも、大津の自害からたった2年と半年後、持統3年(689年)4月13日に病死した草壁に対する、彼に従事していた舎人たちの挽歌23首を読めば、草壁が穏やかで誰からも愛される人柄だったことは、ストレートに伝わって来ます。

|嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも
               草壁皇子の宮の舎人(詳細不明)「万葉集 巻2-172」
|高照らす我が日の御子のいましせば島の御門は荒れずあらましを
                            同上「万葉集 巻2-173」
|み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
                            同上「万葉集 巻2-178」
|み立たしの島をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで
                            同上「万葉集 巻2-180」
|み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
                           同上「万葉集 巻2-181」
|朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下り居て嘆きつるかも
                            同上「万葉集 巻2-188」
|朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも
                           同上「万葉集 巻2-189」


 「にはたづみ」は流れを伴う枕詞です。

 23首ある挽歌のうち、島もしくは嶋を詠み込んでいるものを中心に引用してみましたが、この嶋。これは草壁の住居であった嶋の宮のことです。

 蘇我馬子の墓、と言われている石舞台。その周辺界隈を島の庄というそうですが、ここにかつて邸宅を建てたのは、馬子その人。そして、蘇我氏の滅亡後は、天武の離宮となりました。
 近江大津宮を逃れ、吉野へと急いだ大海人皇子一行は一旦、嶋の宮に立ち寄って翌日、吉野へ到着。壬申の乱平定後も、大海人皇子が最初に身を寄せたのが嶋の宮で、そこから岡本宮へ移動。数ヶ月後には飛鳥浄御原宮へ遷都して、嶋の宮は草壁に贈られました。
 宮中に池を造り、その中程に島も拵えたことからこう呼ばれるようになったそうですが、草壁は他界するまで島の宮で暮らしたようです。

 十市と並んで個人的に思い入れも、親近感もある草壁縁の地だったので、見学必須と思いきや、どうもそれらしき場所が見つからず...。あとで近鉄飛鳥駅前の観光センターの方に教えて戴いたのですが、発掘後に再び埋められてしまったとのこと。民間人の所有地だったがゆえなのでしょうか。
 ただ、うろうろと探していた時に自分が立っていた場所が、嶋の宮跡地であったことは間違いなく、観ることは叶わなくても、触れることは確かにできたのだ、と思っています。

 観光センターでは、さらに耳より情報を戴きました。
「草壁皇子がお好きなら岡宮へ行かれては如何ですか」
 岡宮とは、草壁の陵墓だそうで、こちらへは翌日に早速出向いてきました。

 頼もしと人ら思ひき、宜な/\ おのな貶みそ 人数の皇子   遼川るか

 称へては たへゆゝしきと
 歌伝ふ 丈立ち越えて
 愛でゆする 賢しき徒言
 覚ゆるも やほかを経たる
 いまもなほ 世人もあれも
 思ひ寄る また埋づめられ
 たる宮を 抱くつゝへと
 たなすゑを 添へまくほしと
 祈りたき 手弱きといふ
 奇頼みて

 池に島、あれに見えずも い寝ゐるを頼まゝくほし あが足のしたを  遼川るか
 (於:島の庄)


             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 明日香村を自転車で周っていて数回、川沿いを走りました。飛鳥川です。明日香にある歌枕には、天の香具山や、耳成山、畝傍山、神無備、檜隈川などもありますが、何はともあれ詠まれた歌数も、人々の心へ思い描かせた幻想の深さも、全てに於いて際立っている場所です。

 古代の人々が飛鳥川に寄せた思い。それぞれの胸に、どんな幻想という虚構が宿っていたのかは、それもまた様々です。

|かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
                          厚見王「万葉集 巻8-1435」
|明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
                         作者不詳「万葉集 巻10-2210」


 過ぎ行く季節に無常観を募らせた者たち。

|明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
                         山部赤人「万葉集 巻3-325」


 消えゆく恋の哀しみを吐露する山部赤人がいます。

|年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
                         作者不詳「万葉集 巻7-1126」



 水量に合わせて水底の石が橋のようになって、渡れる日もあれば、渡れない日もあった飛鳥川。ゆえに、昨日の淵は今日の瀬になる、として川の深さを想いの深さに見立てた者がいます。

|しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
                         大伴旅人「万葉集 巻 6-969」


 大伴旅人は望郷の思いを飛鳥川へ寄せました。

 心の寄る辺、人肌の温もりへの執着、恋の幻想。それら全ては同時に常ならぬものであり、過ぎ去っていく時間の中で、それでも心に残り続け、次第々々に美化されていく記憶と言う虚構。飛鳥川が人々の心に最も多く抱かせた幻想だと思います。

 

 水流れ時は過ぎゆく明日香川 覚えゐたくも世離ゆるものと  遼川るか

 八雲色 絶えぬ明日香の水のごと継ぎつるをもてたゞ謡ひゆかむ  遼川るか
 (於:明日香川)


 どんなに覚えておきたくとも、やがて記憶は薄れます。ならば、この一瞬々々の思いを。偽ることなき自らの心を。稚拙な歌にしては残していく。誰に見せたいわけでなく、ただただ己の足跡として。
 未だに日記代わりに歌を詠んでいる私にとって、歌枕・「明日香川」は記憶を手繰った先にある原点。そんな幻想空間を見せてくれたように思います。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 橘寺。その当時は欽明天皇の別宮として使われていて、やがて欽明天皇の第4皇子・橘豊日命、のちの用明天皇に子供が生まれます。名前は厩戸皇子、別名・豊聡耳皇子は、のちに広く聖徳太子と呼ばれるようになります。明日香村にある橘寺は聖徳太子生誕の地の、最有力候補の1つといわれています。

 実際に行ってみて感じたのは、不思議なお寺だと...。南大門、という言葉がある通り、普通お寺の正門は南向きに造られますが、橘寺は東向き。さらには山を背にしています。数箇所観た限りでは、飛鳥で山を背にしたお寺は、橘寺だけだった筈です。
 現在の建物や門は幕末に建て直したものとのことですから、当時のことはよく判りませんが、ただ1つ。東門から同じく一直線上にあった西門。その間口に切り取られるように見えた明日香村の光景は、薄曇の午後でさえ、心惹かれるものでした。桜や橘、紅葉の季節にはさぞや見応えがあるのではないか、と思います。

 日向かひに開きゐる這入り 天地を切り取り映すこは固めの地   遼川るか
 (於:橘寺西門)


 境内にある二面石。善面も悪面もどちらも、何処となくふるった印象があって、どちらもまた真実、どちらもまた本性。そんな風に思ってしまいました。

 折々に 花橘も
 桜をも 紅葉、粉雪
 眺めむを ほりすればこそ
 あらたしき あてこと生はゆれ
 こはうけひの地

 良き悪しき為すも為さぬも葛の葉のうらうへ返さむ 叶はぬほどは  遼川るか
 (於:橘寺)


 「葛の葉の」はうら、を伴う枕詞。

 「万葉集」には橘寺界隈を詠んだ歌が2首。一方は生活の歌で、もう一方は一時期、尼寺だった頃に詠まれたもののようです。

|橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣
                         作者不詳「万葉集 巻7-1315」
|橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか
                         作者不詳「万葉集 巻16-3822」


 4月22日は聖徳太子の修忌ですが、これに因んで聖徳太子に関連ある俳句の季語も幾つかありますね。「貝寄風」「貝の華」「聖霊会」。全て春の季語だったと思います。当季ではありませんが以前、会議室へ上げた拙句を再掲します。

 聖も俗も歌ひ舞ひをり貝の華   遼川るか
 (初出:FBUNGAKU MES 07 #24609)


 同発言内では、聖徳太子の誕生についても少し触れていたと思います。

 それと、道中微かに感じた疑問に「ミハ山」というものがありました。これも突き詰めれば要するに神奈備のことらしく、雷丘や飛鳥坐神社とは別に、現在では「ミハ山」は橘寺近くのふぐり山のことを指す、というのが定説なのだそうです。
 ...ただ、どういう訳か、そもそもの疑問のきっかけをすっかり失念してしまっていて、答えが判っても今ひとつすっきりしないのが難点なのですが。

 橘寺を後にしてすぐお隣の古刹の跡へ向かいます。飛鳥での残る見学予定地もあと僅か。少しずつ、少しずつ、「その時」が近づいてきています。







BEFORE   BACK   NEXT