橿原神宮前駅からすぐのレンタサイクル屋さんで、自転車を借りながらふと、考えしまったのは、最後に自転車に乗ったのはいつだったか、ということ。既に目の前の道からしてなだらかな上り坂になっていて、何とか無事に最後まで周れることを願わずにはいられませんでしたが...。 自転車を漕ぐことわずか数分。造成中の住宅地の中にとり残されたような一画が。剣池です。応神天皇の時代に、他の幾つかの池と併せて造られた人造池だそうですが、この池に関しては「日本書紀」に面白い記述が2箇所出て来ます。 |変わった蓮が剣の池に生えているのを見つけた。一本の茎に二つの花 |が咲いていた。 「日本書紀 舒明7年(635年)7月」 |剣池の蓮の中に、一本の茎に二つの花房をつけたものが見つかった。豊浦大臣は勝 |手に推量して「これは蘇我氏が栄える前兆である」と言った。 「日本書紀 皇極3年(644年)6月」 どちらも同じことを言っていて、9年前も、9年後も蘇我氏は瑞祥として大層慶んだそうです。が、翌645年は大化の改新が起きた年です。つまりは後者に関するなら瑞祥ではなく、凶兆だったということでしょうか。 勝間田の池もそうでしたが、剣池もまた、蓮が咲くような風情はなく。ただ、池の中にある小さな島のような繁みが、静かに島影を水面へ落としていました。 「万葉集」にもこの池を詠んだ歌が1首あります。...中々に何と言いますか、恋に恋する気持ちが込められていて、読んでいて赤面しそうなものです。 |御佩刀を 剣の池の |蓮葉に 溜まれる水の |ゆくへなみ 我がする時に |逢ふべしと 逢ひたる君を |な寐ねそと 母聞こせども |我が心 清隅の池の |池の底 我れは忘れじ |直に逢ふまでに 作者不詳「万葉集 巻13-3289」 「剣池の蓮の葉に溜まる水が何処へ行くのか分からないように、自分がどうなるか判らないでいる時、「逢うべきだ」とのお告げがあった人。なのに、その人とは「添い寝してはいけない」と母は言う。でも私の心は清隅の池の底にじっとしているように、お告げの人のことは忘れません。実際に出逢うまでは」 という感じでしょうか。...いやはや、ここまでストレートに運命の相手を信じている古代の乙女心には平伏したい気分で、思わず詠んでしまった拙歌2首。...後者は、蘇我氏が辿った運命も、少し頭にあったのかもしれません。 寄る辺なくたゝふるしづく御佩刀を剣池へと還さむと思ふ 遼川るか 相立たぬことの多きやいまほるをひたおもむきにな断ちそあれな 遼川るか (於:剣池) 「御佩刀を」は剣を伴う枕詞です。 再び自転車に乗って、剣池を後にしようとした時、歌碑を見つけました。 |軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに 紀皇女「万葉集 巻3-390」 これに詠まれている軽の池は、剣池と同時期に造られた別の池。現在の住所で言うと少し離れた大軽町辺りが該当するそうです。でも、紀皇女もまた、恋の幻想を追い求めていたようですね。 余談になりますけれど、この紀皇女。天武の娘ですが、のちに書く予定の穂積皇子と同母の兄妹となります。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 狭い地域に史跡が密集している明日香では、目的地へ向かう途中の通りすがりに、思いがけない史跡へ立ち寄れてしまうのが凄い処。 水落遺跡。正直、全くのノーマークというか、そういう場所もあったな、という程度にしか興味を持っていませんでしたが、偶々通りかかったのだから、と立ち寄ることに。何でも、日本で最古の時計台が置かれた場所だ、とのことで、時計の種類は水時計。時刻を人々に知らせるべく、鐘や太鼓も備わっていたようです。 ...唐から学んだ当時の最先端技術だった、ということでしょうか。 発掘された遺跡は、予習を全くしていない身には、今ひとつピンと来ず...。今回の旅行の見学先のうち、唯一現地では1首も浮かばなかったのがここです。 が、帰還後あれこれ調べているうちに自分が、何て勿体無いことをしてしまったんだろう、と後悔すること頻り。というのも「万葉集」には、この水時計か、その後継の鐘の音を詠んだ歌もちゃんとあるんですね。 |皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寐ねかてぬかも 笠女郎「万葉集 巻4-607」 「人は皆もう寝なさい、と亥の刻の鐘(午後10時)は鳴るけれど、あなたを想うと眠れません」 如何な当時の最先端技術とはいえ、やはり基本にあるのは日の出とともに起床、日没とともに就寝という時代ですから、仮に最も日脚の長い夏至の頃に詠まれた歌だとしても、かなりな宵っ張りですね、笠女郎は。 笠女郎。詳しいことは全く判っていない女性ですが、大伴家持に贈った歌が「万葉集」には29首収録されています。...因みに「万葉集」収録の、家持から笠女郎へ贈られた歌はたった2首のみ、ですが。 もう1つ、現地ではぼんやりしていて失念してしまったのですが、時の記念日の起源に確か中大兄皇子が関係していたことを、宿へ戻ってから思い出し...。やはり、そうでした。「日本書紀」から引用します。 |皇太子が初めて漏剋をつくり、人民に時を知らせたるようにされた。 「日本書紀 斉明6年(660年)5月」 |夏4月25日、漏剋を新しい台の上に置き、はじめて鐘・太鼓を打って時刻 |を知らせた。この漏剋は天皇がまだ皇太子であった時に、はじめて自分 |でおつくりになったものであるという。 「日本書紀 天智10年(671年)4月」 4月25日というのは太陰暦なので、これを太陽暦に換算すると6月7日。さらにそれをグレゴリオ暦(現行の太陽暦)に換算すると6月10日になります。 大化の改新後、立太子はしたもののすぐに皇位には就かなかった中大兄皇子ですが、この水落遺跡によって時間さえも。民草の隅々に至るまでの人間の生活を司る時刻さえも。彼が司る、という支配者としての狼煙を上げた史実なのかも知れませんね。 ゆほびかにほど従へて息づける御霊は至高 奇に縁と 遼川るか 訪れし静かなるときなほも厳か 巌なす常磐堅磐に祈らむ ひそと 遼川るか いにしへにときを伝へし水時計 蘇るごと 最古の鐘が 空耳聞こゆ 遼川るか (初出:いまのは倶楽部・第449トビケリ歌句会お題「時間」) 「巌なす」は常磐堅磐を伴う枕詞。 水落遺跡。予習していなかったが為に、きちんと見学できたとは思えませんが、それはそれとして、いつか叶える再訪の日まで、「極めて私的な歌枕」という虚構として、今は存在している場所です。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 万葉1期。その幕を下ろして白鳳・万葉2期の到来を齎した事件は、大化の改新ですが、血生臭い権力争いの軌跡は、明日香を周っていると次々に現れます。こちらも特別、見学希望のリストには入れていなかったのですが、通りすがりであったために少しだけ足を止めてしまいました。蘇我入鹿の首塚です。 今にして考えてみると、山田寺跡にしても、蘇我入鹿の首塚にしても、この後立ち寄る飛鳥板蓋宮伝承地にしても。私はことごとく万葉1期に関わる場所はリストから落としていたようです。...逆を言えばそれだけ讃良に照準を絞っていた、ということなのでしょうが。 蘇我入鹿の首塚。奈良を訪ねたのは、今回が4回目で1回目は中学の修学旅行。2回目と3回目は記者時代の取材、ということで個人の希望や思い入れではない外部から宛がわれた枠組みの中でしか、私は奈良を知りませんでした。 首塚にしても、2回の取材では両方とも観た記憶はあるのですが、あまり印象に残っていません。取材スケジュールのタイム・キーピングや、撮影の天候条件や、そんなこんなにカリカリしていたのでしょうね、恐らくは。 だけに、ふと立ち止まって眺めた首塚には、何だかあれこれと考えさせられてしまったものです。 |
大化の改新は、蘇我入鹿を誅殺することによって始まりました。詳しくは飛鳥板蓋宮伝承地に関連して書きますが、伝えられているその有り様は、相当なものがあります。無残にして凄惨としか言いようのない...。 現代に暮らす私たちが歴史を紐解く時、当然のように歴史書に頼ります。しかし、その歴史書というものは時の権力層にとって都合よく編纂されたものであるのは、偽らざる事実。藤原氏の思惑色濃い「日本書紀」も、北条氏をひたすら美化している「吾妻鏡」も、凡そ歴史書というものはそういうものだと思います。 私自身、入鹿は厩戸皇子の子供・山背大兄王やその一族を滅ぼした張本人、と信じて疑っていない時期がどれほど長かったか。 でも、その裏側には厩戸皇子の直系一族の勢力を疎ましく思っていた中臣鎌足の影が、どうしても見え隠れしています。そしてその讒言にまんまと乗せられ自身の従兄弟に当たる山背を殺してしまった、何処か人間臭い入鹿の姿も。 きっと、歴史に答えはないのでしょう。もちろん学術的には1つの筋道は敷かれて然るべきだとは思います。が、個々人が思い描く歴史はそれぞれが思い入れのある人物の側から、歴史の闇に細い光を差し込め、照らすようなものなのでしょうし、それはそれでまた愉し。 虚木綿の隠されてこそ時進め 仇花掲げ明かしたるもの 遼川るか ほど/\し 晒し者にはなほとこはせめて手向けむ かつも拝まむ 遼川るか 首塚に艶も冷たき青蜜柑 遼川るか (於:入鹿首塚) 「虚木綿の」は隠すを伴う枕詞です。 恐らくは地元の方なのでしょうが、首塚にはまだまだ青い走りの蜜柑が2つ、そっと供えられていました。...何となくですが少し、ほっとしました。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 実際に訪ねた場所は飛鳥寺のみ。でも、個人的には事前のリストにも別記としてもう1箇所、書いていました。真神原、と。 これについては、大前提として現実の地理が頭に入っていなかった、というのがありますが、それとは別に飛鳥寺に纏わる、延々と続いた血で血を洗う権力抗争と、「万葉集」に残るごくごく有り触れた人々の思いとが、今ひとつ結びつかなかった、ということもあります。 |大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに 舎人娘子「万葉集 巻8-1636」 |みもろの 神奈備山ゆ |との曇り 雨は降り来ぬ |天霧らひ 風さへ吹きぬ |大口の 真神の原ゆ |思ひつつ 帰りにし人 |家に至りきや 作者不詳「万葉集 巻13-3268」 真神原は、飛鳥寺を中心とする周辺一帯の地域で、百済から帰化した人々の居住地でもありました。だからなのでしょうか。飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏の仏師は鞍部首止利。その止利の祖父は中国人の達等、父は帰化人の多須奈です。 引用した歌からも判りますが、当時の真神原は随分と寂しい、荒野に近い場所だったのかも知れません。後で知ったのですが、「大口の」も枕詞だったらしく、真神原を伴うそうです。そして、大口は狼のこと。 狼がうろつき、眼差し鋭い帰化人が暮らす土地。そして、そこを本拠地として権勢を不動のものにしていったのが、蘇我馬子です。 飛鳥寺は彼によって建てられ、建立途中には崇峻天皇の暗殺、という大事件さえ起こして、宮中に睨みを利かせるようになった馬子。彼は、飛鳥寺完成後も20年ほど生きていました。 けれども、その更に20年後には、中大兄皇子と中臣鎌足が親交を深めるきっかけとなった打鞠が飛鳥寺で行われ、やがて2人が打鞠に興じながら蝦夷・入鹿打倒計画を練り上げることまでは、流石の馬子ですら想像出来なかったでしょう。 そして、その中大兄皇子、つまりは天智天皇にしても、自らの息子と弟の大海人皇子の、覇権争いであった壬申の乱の際、飛鳥寺の境内に大海人勢の本陣が置かれることになるのは、想像だにしなかったのではないか、と。 実際に訪ねた飛鳥寺は、観光客の姿もちらほらしていて、かつて舎人娘子が 「どうか雪よ、こんなに降らないで」 と切望した風情もなく、狼がうろついていた荒野もなく、権謀術数渦まいた覇権争いの跡も、もちろんなく...。穏やかな田園風景の中に溶け込んでいました。 |
帰化人の 営みし土地 大口の 真神の原は いま訪はれ かつての荒野 いたものど むげちなしかな よゝのあと せめて手繰らむ 寄りし人の 思ひの歌を またも重ねて 初秋の野には雪さへ霧でさへ描き難かるありしの荒野 遼川るか (於:真神原・飛鳥寺) −・−・−・−・−・−・−・−・− 奈良県内に4箇所ある、という出雲縁の神奈備。1つは雲梯の杜だったのですが、残る3箇所のうちの1つが、飛鳥にあります。 とにかくギリギリまで場所が判らなかった雲梯の杜について調べている時、ひょんなことから「日本書紀」に。さらには「延喜式」に辿り着いて...。ようやく解明となったのですが、そこに併せて記載されていたのが飛鳥坐神社でした。 |
|乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を |八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命 |の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を |宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神 |と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐しき。 「延喜式 巻8 出雲国造の神賀詞」 雲梯の杜と違って「万葉集」とは関連もなく、とはいえこちらも通りすがりでしたから、立ち寄ってみました。...が、いきなり現れた上り階段にすっかり日和ってしまい、参拝は見送ることにしました。自転車漕ぎが中々に重労働だったものですから。 境内の片隅に「幸せの石」というものがありました。小さめな檻の中に入っているのですが、それを女性は右手で、男性は左手で持てたら幸せになれる、とのこと。偶然居合わせた親子連れさんが挑戦していましたけれど、持てなかったようで、続いて私も試した処、やはり持てませんでしたね...。 さきはひを 祈ぐして馬手で 持つほりて 持たまくほしくも 抗ひし 石にはゞまれ 倖とほく さても思ふは みな容れむ なほうむがしき こともあり こゝろゆ深く 倖願ふ 人あるゆゑに あれなどは 弓手で成せし どしは涼やか 持てたなばいまゆ逃れず肯ひて行きたがらずや空あるものを 遼川るか (於:飛鳥坐神社) 神聖な森である神奈備。雲梯の神奈備は余りに巷に埋もれてしまっていて、飛鳥の神奈備はちょっぴり厳粛さとは違う、親しみ易さが滲んでいる場所でした。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 飛鳥坐神社の脇には裏手へ続く坂道がひとつ。それを登ると大原の里、別名・藤原の里が広がります。藤原、つまりは鎌足・不比等という朝廷のフィクサー的存在であった親子の本拠があった土地です。 首都圏に住む人間からすると、明日香自体がとても長閑で何処となく懐かしさを覚える光景が続いているのですが、大原の里はさらに一段と静かで、あの古代史に名を残す、冷酷無比な藤原親子に縁の土地とは、すぐにはイメージが結びつきません。 けれども、幾つか立ち並ぶ石碑などからすると、紛れもなく...。五百重娘という人がいます。彼女は鎌足の娘にして、不比等の妹。天武天皇の後宮へも入っていて、例の勝間田の池で書いた新田部親王の母親です。 ですが、彼女は後に不比等へ下賜されています。 本来、一旦後宮へ入った女性は、譬え天皇崩御後でも、皇族以外へ嫁ぐということは当時、あまりありませんでした。というよりある意味に於いては、それは禁忌であったとも言えます。そして、この禁忌をやってのけている、というのか事実上、天皇了承の上で、成したのが藤原二代の息子・不比等と父・鎌足です。 額田王に関連して少し触れましたが、天智の妃であった鏡女王ものちに鎌足へ下賜されてしまいます。 それが実力者・藤原だからこそ、であったことは疑いようのない話なのですが、ここで興味深いのが、歌からうける人柄の印象です。残念ながら不比等の歌は「万葉集」に残ってはいず、彼がどんな人柄だったのかは歌からは辿れません。 けれども鎌足は2首収録されていて、1首は鏡女王とのやり取り。もう1首はやはり采女といって後宮の下級役人(女官)のうち、評判高い安見児を天智から賜った、と喜びを謳い上げているもの。どちらも辣腕政治家・鎌足のイメージには酷く遠い、人間味溢れるものです。 |我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり 藤原鎌足「万葉集 巻2-95」 |玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ 藤原鎌足「万葉集 巻2-94」 特に「我はもや〜」の歌は後世、素直な歌と賞賛されていますし、事実そう思います。因みにこの安見児を得た時、鎌足は54歳。他界する1、2年前のことです。 世を統べしてゝとその子にゆゑのある鄙の村里けふがるほどに 遼川るか これが妹かつて君の妃たるれども召しつる彦のてゝも人の子 遼川るか (於:大原の里) 「玉櫛笥」は覆うを伴う枕詞です。 大原の里にあった歌碑。鎌足のものではなくて、何故か五百重娘と天武のやり取りものでしたね。 |我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 天武天皇「万葉集 巻2-103」 |我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ 藤原夫人「万葉集 巻2-104」 |
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