「万葉集」には、様々な土地も詠まれています。所謂、歌枕なのですが。歌枕は、川であったり、山であったり、と比較的その対象が小さなもののことを指し、何よりも憧れの地、という幻想空間として詠まれることも多い、と思います。
 もちろん、歌枕には全て実在の土地はあります。が、その実景と一緒にそれまで詠み手がずっと胸に抱いていた憧れや、記憶の中にだけに残る今はなき場所、という幻想=虚構を伴うものであることも、また事実でしょう。吉野の「夢のわだ」で引用した歌が、この何よりもの象徴例だとも思います。

 一方、もっと大きな、今で言う1つの都市なり、地域なり、という括りで見た場合、「万葉集」に特に多く詠まれているのが、奈良・吉野、そして明日香の3箇所。そう、飛鳥です。そして同時に、飛鳥にも歌枕は複数あり、さらには今回の行程の中で最も拘りのある場所が犇めき合っていたのも、また飛鳥でした。

 けれども、拘りはあれど中々、場所が判明しなかった見学先が1つだけ。「万葉集」に登場する雲梯の杜です。正直、これには少し不安になりました。というのも、この雲梯の杜は個人的な思い入れ度の高さでは、やはりベスト5に入る場所だったからです。...が、出発当日の夜には、何とか無事場所も判明。奈良旅行3日目は、この雲梯の杜から始まります。

 雲梯、と書いて「うなてorうなで」と読みます。意味は城壁に掛ける梯子でもあり、農具の1種でもあり、川から田圃へ灌漑用に掘る溝であり、そしてその大元は水の神様・ウナネ神なのだそうです。

 雲梯の杜は、かつて雲梯神社、現在では河俣神社と呼ばれるお社で、橿原市を流れる曾我川東畔に鎮座。祭神は鴨八重事代主神、とのこと。
 「万葉集」に頻繁に登場する「神奈備/かむなび」。これは、神の森のことですが、信仰の中心となる神聖な樹木のある地、という意味で、河俣神社も神奈備でした。
 そもそも、神奈備というのは出雲の国から大和へ鎮座させた、という経緯があり、この出雲縁の本来あるべき神奈備は、奈良県内に三輪、竜田、明日香にあるとされています。もっとも、出雲縁ではない神奈備もあって、調べた範囲ではのべ215箇所の神奈備が奈良県内にありましたけれども。...余談ですが。
 だからなのでしょうか。「万葉集」には雲梯の杜を詠んだものは2首あるものの、うち1首には神様が登場しています。

|思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ
                        作者不詳「万葉集 巻12-3100」


 寄物陳思、つまりは物に寄せて思いをしのぶ歌、として収録されているこの歌は、もし私が「万葉集」4516首の中で、好きな歌を3首挙げよ、と問われたなら確実に選ぶであろうものの1つです。
「本当は好きではないのに、あなたのことを好きだ、などと偽って言えば、鷲が棲む雲梯の杜の神様に判ってしまい、罰が与えられてしまいますよ(だから、本当に、真剣にあなたのことが好きなんですよ)」
 歌の意味自体はこんな感じで、要するに人を好きならば真剣に好きであれ、ということでしょう。

 けれども私の場合、状況こそは全くの逆ですが真剣に、素直に好きではいなかったが為に、罰が与えられてしまったのだ、と思ってしまわずにはいられない記憶があります。つまりは、本当は好きだったのに、好きだと認められなかったから。好きだ、と言えなかったから。...そう思うと、いつ読んでも身に詰まされてしまう歌です。
 ...好きと言えなかった。好きだ、と気付けなかった相手。それは亡母です。

 大まかなことは十市皇女に関連して書きましたので、これ以上は触れませんが、とにもかくにも何でも出来、何事にも優れていた母に対し、特段の能力もなく生まれて来た私は彼女の生前、ついに魂を寄り添わせることができませんでした。
 唯一、病床で次第に気弱になっていく彼女を励ます為に、
「万葉巡りをしよう。だからもう一度元気にならなくちゃ」
 とは言いましたが、それとて何処まで本気だったのか自分でもよく判りません。心の奥底では、そんな日が来る筈もないことも重々承知していましたし、真剣に奈良行きについて考えるようになったのは、むしろ彼女の他界後です。

 素直になればよかった、と。意地を張らねばよかった、と。何度後悔した処で時すでに遅し。間に合わなかった。ようやく伝えようと思っても、相手はこの世の何処を探してもいない。そんな何よりも重い罰を贖う為にも、この歌に纏わる、雲梯の杜をどうしても。どうしても、私は訪ねたかったのです。

 実際の雲梯の杜はこじんまりとした、人気のない、何だか少し寂しげな神社で、私の思い入れとは裏腹に、住宅地の中のごく普通のお社のようでした。それも、滅多に人が立ち寄らないような...。
 ただ、鳥居の傍に立っていた「思はぬを〜」の歌碑だけが、ここが神奈備であり、まぎれもなく「万葉集」の舞台であることを、そっと主張していました。

 特別、祈るつもりも、懺悔するつもりもなく、ただ亡母から受け継いだ歌をきちんとここで即詠する。それが私なりの贖罪。最初からそう思っていました。なので、実際も何をしたわけでなく...。

 木綿四手の神漏岐の座ひそやかに巷に埋もれつむ/\い寝る  遼川るか

 慈悲あらば八十の衆生が祈りなどむだかまくほし いにしへのごと  遼川るか
 (於:雲梯の杜・河俣神社)


 「木綿四手の」は神を伴う枕詞です。

 私に罰を与えて下さった神樹がどれなのかもよく判りませんでしたが、雲梯の神奈備はただただ静かに、葉ずれの音を響かせていました。
 ...余談になりますがこの後、私は結果的にもう2箇所の神奈備にも立ち寄ることになります。

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 思い入れのある歌が「思はぬを〜」ならば、「万葉集」で最も思い出深い歌、というものもまた、あります。
 雲梯の杜を後にして、向かった先は藤原宮跡。唐の長安をモデルに、天武天皇が着手した造営計画は天武亡き後、讃良によって引き継がれ、持統8年(694年)にようやく飛鳥から、遷都。その後は持統・文武・元明朝と、3代16年間に渡って使われた都の首都が、藤原宮です。

 実際に見た藤原宮跡は、平城宮跡ほどではありませんが、それでも所々に盛り土というのか、かつての遺跡の土台というのか、少し高くなっている土壇が数箇所あるだけの、広い田野。
 讃良に関連する場所なので、期待の高まっていた私は正直、拍子抜けして唖然としてしまい...。けれども、目の前のこんもりした山が何なのか。それが判った途端、全てが引っ繰り返りました。
 ...天の香具山でした。

 指差して初めの歌が物語る天の香具山
 過去澄みゆきて 郎女、四歳       遼川るか
 (於:藤原宮跡)



 思い出さない訳がありません。4歳のあの日、百人一首の読み札を手に、初めて触れた和歌というもの...。今にして思えば、幼かった私が最初に惹かれた十二単も、長く垂らした髪も、大きな扇でさえ、当時の時代考証からすれば、あり得る筈もなく...。言ってしまえば、あの札は虚構のようなものでした。
 が、その虚構があったからこそ、何だかんだと歌を詠み続け、ついには30年懸けて、讃良が実際に歌を詠んだ場所に辿り着いた私がいます。

 また、百人一首に採られているのは「新古今和歌集」に収められている方の歌で、実際に讃良が詠んだものは「万葉集」のものの方が近い、とされていて。この微妙な違いを知ったのは、小学校何年生だったか...。

|春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
                         持統天皇「万葉集 巻1-28」
|春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香久山
                    持統天皇「新古今和歌集 巻3 夏 175」


 「白妙の」も、「白栲の」も、どちらも衣を伴う枕詞。

 人伝に聞いた話では、テレビ番組の企画で実験したのだとか。天の香具山に白い洗濯物を干したら、藤原宮跡から見えるのか、と。
 ...見えたそうです。

 1300年前。讃良があの歌を詠んだのは、彼女が皇位を退く数年前の持統8年(694年)のこと。13歳で大海人皇子に嫁ぎ、以来26歳で吉野へ逃亡、翌27歳で壬申の乱、その翌年には壬申の乱平定並びに天武天皇即位。
 その天武の他界が41歳の時。大津・草壁の悲劇を乗り越えて、ようやく遷都が叶う、という1300年前のこの場所で。既に50歳近くなっていた彼女は得意げに、大らかに、眼前の天の香具山で、初夏の風に揺れる洗濯物を眺めながら、長かった激動の時代が終わりゆくのを、実感していたのかもしれません。
 そして遷都から3年後、52歳で草壁の遺児・軽皇子へ皇位継承。さらにその5年後、他界。57歳だったといいます。

 私にとって1番初めの和歌。ずっと憧れてきた1人の女性としての讃良が、人生の絶頂を向かえていたであろう藤原宮跡で。30年の時を経て、そして1300年の時を越えて、様々な憧れと虚構が、己の中で疑いようもない事実に成り代わった。
 そんな瞬間でした。

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 柿本人麻呂に関連して引用した、高市皇子への挽歌。「万葉集」最長のあの歌の反歌にあった埴安の池は、伝承地はあるものの現存はしていません。が、同じく高市皇子への挽歌を詠み、捧げた、桧隈女王(高市の娘。妻という説もあります)が詠み込んだ哭沢の杜は、今も訪ねることが出来ます。

|哭沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ
                           桧隈女王「万葉集 巻2-202」


 哭沢の杜は、埴安の池が現存していたら丁度そのほとりに位置。哭沢神社、正式名・畝尾都多本神社を中心とする、周辺一帯の森を指すのだそうです。
 この神社が祀っているのは「哭沢女/なきさわめ」。「古事記」にお詳しい方ならピンと来るかもしれません。そう、火の神「軻遇偶突智尊/かぐつちのみこと」を生む際の火傷が元で、他界してしまった「伊弉冉尊/いざなみのみこと」。それを悲しむあまり「伊弉諾尊/いざなぎのみこと」が零した涙から生まれたのが、哭沢女です。

 桧隈の歌からするに、高市の平癒を祈った神様がこの哭沢女、ということになりますから、恐らくは悲劇が転じて生命復活の神として、当時には伝えられていたのやも知れません。また、それを後押しするように境内には変若水、なる飲めば確実に若返る、という伝説の水が湧く井戸もあるそうです。

 個人的に若返りにはさほど必要性を感じていませんでしたが、それでも観てみたくて、少し周囲を見廻してみたのですけれども、そのような井戸は見つけられませんでした。
後日、神奈川へ戻ってから少し調べた処、どうやら井戸そのものが玉垣と社殿の中に隠れてしまっていて、通常の参拝では若返りの聖水は、お目に掛かれそうにもない、と判明。

 唐衣 真子を悼みて
 流しゐし 露に息づく
 哭沢女 のち宿したる
 命生く 奇のゆゑか
 乳の実の 父を悼みて
 変若水を ほりしゝたやも
 見まくほし 探さまくほし
 見渡せど さても叶はぬ
 玉垣の内

 息の緒の続くまに/\いまありてまた続くらむ そのかみまでも  遼川るか
 (於:哭沢神社)


 「唐衣」は真子を、「乳の実の」は父を、それぞれ伴う枕詞です。

 高市皇子。天武の第一皇子にして草壁・大津に続いて皇位継承権は第3位。これは母方の出身の位による、と言われています。壬申の乱では軍事を一手に引き受け、肝心の天武は平定後の宮の造営の指揮をとっていた、というのですから如何に父・天武から全幅の信頼を寄せられていたかが窺がわれます。
 天武亡き後、大津・草壁と上位の皇位継承者が他界するも、高市は皇太子には終ぞならず、太政大臣として43歳(42歳との説あり)で他界。

 「万葉集」には歌は3首しか収められていなくて、全ては異母姉・十市皇女に対する挽歌。歌から彼という人を追いかけるのは少々困難です。
 が、常に宮中で安定した働きをしていたからなのか、歌に頼らずとも歴史の中に高市の足跡は常に見え隠れしています。

 彼の第1子が、有名な長屋王です。恐らくは日本最古ではないか、という文芸サロンを設けては歌や詩作に耽り、同時に時代の進行の中、次第に形成されていった皇族vs藤原氏、という対立構造を一気に表面化させた事件の当事者です。
 この長屋王については、最終日の行程の中で、じっくりと書かせて戴こう、と思っています。

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 出発前、どうしても外せない目的地のリストアップには、自分でもかなり真剣に取り組んだと思います。特に位置関係がどうしても頭に入りきらなかった飛鳥に関しては、モレはないか、ヌケはないか、と何度もお浚いした筈だったのですが...。やはり、落ちてしまっていた場所、かなりありました。
けれども、そのうちの幾つかは当日、ふと予定を変更して立ち寄った為に事なきを得ることができ...。山田寺跡もその1つです。

  

 大化の改新をなした中大兄皇子。倒した相手は蘇我蝦夷・入鹿親子。それまで権勢を誇っていた蘇我一族は事実上、ここで没落します。...滅ぶ、ではなくあくまで没落、ですが。そして、その中大兄皇子の娘でありながら、蘇我の血脈を受け継ぎ、ついには自ら皇位に就いたのが、讃良です。

 蘇我氏一門の中に、蘇我倉山田石川麻呂という人物がいました。蘇我蝦夷の甥に当たります。「倉」とある以上、財務管理などのより実務に長けた家系だったのかも知れません。
 大化の改新前、中大兄皇子陣営の人材に若干の不安を抱いていた中臣鎌足は、この石川麻呂に目を着けます。そして、彼の娘を中大兄皇子へ嫁がせて、2人の関係を深めよう、と画策。けれども、この計画は婚約が決まった晩、暗礁に乗り上げます。嫁ぐ筈の長女が石川麻呂の異母弟・日向によって奪われてしまい...。

 困惑していた石川麻呂を救ったのが、彼の次女・遠智娘で、自ら中大兄皇子へ嫁ぐことを申し出た、といいます。そして、この遠智娘こそが後に、讃良を産んだ実母で、逆を言えばこんなアクシデントがなかったら、日本の古代史は完全に変わってしまっていたんですね。

 こうして蘇我氏でありながら中大兄皇子や中臣鎌足と深く結びついた石川麻呂は、揃って大化の改新を実行。蘇我蝦夷・入鹿親子が他界し、中大兄皇子が事実上の政権を握ります。同時に石川麻呂もまた、右大臣へと上り詰めてゆきます。
 けれども、大化の改新からたった4年で事態は急変します。あの長女を奪ってしまった日向の讒言によって、石川麻呂は謀反を疑われてしまい...。造営途中の山田寺にて妻子共に自害。天智へ嫁いでいた遠智娘も、夫が父を殺したという悲傷の余り世を去ります。残された蘇我の血脈の主だったものは、讃良とその姉の太田皇女、2人だけでした。
 その後、石川麻呂の潔白は証明され、天智は随分と悔やんだそうですが...。

 やがて時は流れ、残された蘇我の血脈を守り、そして祖父の名誉を晴らすために、中断されていた山田寺の造営を再開したのは、やはり讃良でした。讃良という人は、薬師寺然り、藤原宮然り、そして山田寺然り、と身内の遺志を随分と沢山受け継いだり、譬えそもそもの目的が潰えてしまっても、物事をきちんと完遂した人だ、と思います。そして、そこへ漕ぎ付けさせた裏側には、彼女の不惑で不断の努力と情熱があった、ということなのでしょう、きっと。

 日本最古の木造建造物は法隆寺、となりますが実は山田寺跡はそれよりも半世紀も古く、特に発掘された東回廊は復元されて飛鳥資料館に展示されています。また同じく、この寺にて発掘されたという薬師如来の仏頭は興福寺に。
 実際に立った山田寺跡は、こちらも一面に茫とした野原が広がっていて、かつての雰囲気はやはり像を結ぶことができませんでした。

 負はされたなさか雪ぎて築かせしいにしへの地に風吹くかぎり  遼川るか

 そのうちに孕みし血潮は違へ得ぬ 繋ぐ百夜も跡の白波   遼川るか
 (於:山田寺跡)


         

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 明日香村は史跡保全の観点から道路が細く、駐車場もほぼ皆無。なので、レンタサイクルで周るのが必至となるので、明日香村から少し距離のある場所は先に纏めて周ってしまうのがこの日の予定。それもほぼ終えることが出来たので、ついに明日香村へと向かいます。
 途中、車窓を通り過ぎていった、小さな丘。...正直、丘というよりは少し大きな繁み、とも言えそうなくらいにこじんまりしていたのが、雷丘でした。

|大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻3-235」
|大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
                       柿本人麻呂「万葉集 巻3-235 別記」

|右は或る本に、「忍壁皇子に奉ったものだ」といふ。その歌には「大君は
|神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます」とある。雷丘を実際の雷のよ
|うに見てゐる。
                        「万葉集 巻3-235」左注による


 前者は讃良に、後者は忍壁皇子に、それぞれ人麻呂が献上した、宮廷讃歌ですが、どうもその偉大さを称えて「天上の雷よりも高い場所に御座します」と譬えるには、言葉こそ悪いですが余りに貧弱な繁みである雷丘は、高さ9mほど。
 けれども本来、飛鳥の神奈備はこの丘を指し、現在、神奈備とされている飛鳥坐神社も以前は、ここにあったという説もあるそうです。また、

|明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
                        丹比真人國人「万葉集 巻8-1557」


 という歌に詠まれている「行き廻る岡」も雷丘を指していることはほぼ間違いなく、この繁みが一体、古代の人々にはどのように感慨深いものだったのか、今としては知る術もありません。
 ただ...、人麻呂という才人にとっては、実景などほんのきっかけに過ぎず、自身の脳裏で次第に広がっていくイメージに合わせて言葉を紡いだ結果、ああいった勇壮な歌が生まれた、と。たったそれだけのことだ、と私には感じられます。...トランス状態、という。

 今回は時間の関係で通り過ぎただけでしたが、もし奈良再訪の機会に恵まれるなら、何はともあれ最初に行きたいのが、雷丘でしょう。現代短歌ではなく、あくまで古典和歌に拘り、和歌は文芸というだけではなく、純粋な魂の発露の側面もあって、言霊に司られているものでもあって...。そう信じて疑う積もりもない私には、何か1つの答えが得られそうな場所だと、思えてならないからです。

 天雲の雷丘たゞつかさ面起こしの譬へほどはも   遼川るか
 (於:雷丘)


 「天雲の」は雷を伴う枕詞です。

  

 さて、...いよいよ今回の奈良旅行のハイライトとも言える明日香村を散策します。







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