国道307号を北へ、北へ。くねくね連続してカーブしている峠道を越えて向かう先は大宇陀です。丁度、国道166号と交差する辺りに大宇陀の道の駅があり、そのごく近くには柿本人麻呂に縁のある見所が幾つかあります。
 一般に俳句で俳聖と言えば松尾芭蕉のことですが、和歌で歌聖と言えば人麻呂を指します。「万葉集」には長歌20首、短歌86首が収められていて、特に高市皇子に対する挽歌は「万葉集」最長。圧巻の雄編とされています。

|かけまくも ゆゆしきかも
|言はまくも あやに畏き
|明日香の 真神の原に
|ひさかたの 天つ御門を
|畏くも 定めたまひて
|神さぶと 磐隠ります
|やすみしし 我が大君の
|きこしめす 背面の国の
|真木立つ 不破山超えて
|高麗剣 和射見が原の
|仮宮に 天降りいまして
|天の下 治めたまひ
|食す国を 定めたまふと
|鶏が鳴く 東の国の
|御いくさを 召したまひて
|ちはやぶる 人を和せと
|奉ろはぬ 国を治めと
|皇子ながら 任したまへば
|大御身に 大刀取り佩かし
|大御手に 弓取り持たし
|御軍士を 率ひたまひ
|整ふる 鼓の音は
|雷の 声と聞くまで
|吹き鳴せる 小角の音も
|敵見たる 虎か吼ゆると
|諸人の おびゆるまでに
|ささげたる 幡の靡きは
|冬こもり 春さり来れば
|野ごとに つきてある火の
|風の共 靡くがごとく
|取り持てる 弓弭の騒き
|み雪降る 冬の林に
|つむじかも い巻き渡ると
|思ふまで 聞きの畏く
|引き放つ 矢の繁けく
|大雪の 乱れて来れ
|まつろはず 立ち向ひしも
|露霜の 消なば消ぬべく
|行く鳥の 争ふはしに
|渡会の 斎きの宮ゆ
|神風に い吹き惑はし
|天雲を 日の目も見せず
|常闇に 覆ひ賜ひて
|定めてし 瑞穂の国を
|神ながら 太敷きまして
|やすみしし 我が大君の
|天の下 申したまへば
|万代に しかしもあらむと
|木綿花の 栄ゆる時に
|我が大君 皇子の御門を
|神宮に 装ひまつりて
|使はしし 御門の人も
|白栲の 麻衣着て
|埴安の 御門の原に
|あかねさす 日のことごと
|獣じもの い匍ひ伏しつつ
|ぬばたまの 夕になれば
|大殿を 振り放け見つつ
|鶉なす い匍ひ廻り
|侍へど 侍ひえねば
|春鳥の さまよひぬれば
|嘆きも いまだ過ぎぬに
|思ひも いまだ尽きねば
|言さへく 百済の原ゆ
|神葬り 葬りいまして
|あさもよし 城上の宮を
|常宮と 高く奉りて
|神ながら 鎮まりましぬ
|しかれども 我が大君の
|万代と 思ほしめして
|作らしし 香具山の宮
|万代に 過ぎむと思へや
|天のごと 振り放け見つつ
|玉たすき 懸けて偲はむ
|畏かれども
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-199」
|ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-200」
|埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-201」


 「既に他界している天武天皇より任されて、この国を平定しようと兵を束ね、太刀と弓を持ち、兵を励まし、戦った高市皇子。服従しない敵軍と死ぬなら死ねと戦っている時、伊勢神宮から神風が吹いて敵軍を混乱させ、この瑞穂の国を平定された我が高市皇子が政務を執り仕切ったので、永遠に栄え続けるだろう、と思っていたのに。皇子の御殿の人々は白い喪服を着、嘆き哀しみは未だ去らないのに、皇子を神として葬り申し上げて、城上の宮を永遠の御殿としてお鎮まりになってしまった。けれども我が皇子が永遠に、と願って建てた香具山の宮は万代に滅びないだろう。大空のように仰ぎ見ながら、御偲び申し上げよう」
「亡くなって天上を治められている皇子であるのに、月日が過ぎても恋い慕い続けているよ」
「埴安の池の堤の隠り沼のように舎人たちは途方にくれて迷っていることだ」

 反歌2首はともかく、問題の長歌は、余りに長いので本当に骨格だけに掻い摘んで歌意を解いてみましたが...。
 「高麗剣」は和射見(関が原)を伴う枕詞、「鶏が鳴く」は東を、「冬こもり」は春、「大雪の」は乱れ来て、「露霜の」は消、「行く鳥の」は争ふ、「木綿花の」は栄ゆ、「言さへく」は百済、「あさもよし」は城上、「玉たすき」は懸く、をそれぞれ伴う枕詞になっています(「ぬばたまの」など、一般的なものは省いています)。

 少し脱線しますが、枕詞。一説には850種はある、とされていて個人的にここ数年間、こつこつ新たに知ったものは書き出し、そして自分で詠み込める時は試しに1首詠んでみたり、とかなり真剣に取り組んでいる私的探求のようになっているものなのですが...、まだ半分にも達していません。
ただ何故、枕詞がこんなにも沢山存在したのか、は何となく判る気がしています。それは長歌を詠む時。
 長歌はご存知の通り57×3〜+7、そして反歌として、短歌か旋頭歌を1首または2首伴います。前述していますが、言葉を打ち連ねて次第に上り詰めるボルテージから、トランス状態へなっていく中。どうしても5音の部分で詰まってしまうことがあるんですね。不思議と7音に関してはそうでもないのですが...。
 そんな状態をクリアするのに、とにかく枕詞には随分、助けられます、だからこそ特に万葉時代の和歌の頻出単語には枕詞のあるものが多い、とも思います。あくまで個人的な感覚ではありますが。

 なので、そういう目で「万葉集」の長い、長い長歌を読んでいくと何となく、詠み手の詠草時の呼吸が伝わってくるように思えてしまうこともあります。
 といって、こちらもまた、極めて私的な思い込みで恐縮ですが...。

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

 大宇陀の一体は、国道から一歩、道を逸れると余りに長閑な田園風景が広がっていました。周囲を囲む山々と、あとはただただ、風にうねる青田。

 田の色をすべて見渡す真昼かな   遼川るか
 (於:かぎろひの丘近く一面の田圃の中)


 木陰すらもなく、人気もなく、聞こえるのはただ風の音だけしかない舗装された畦道では、まるで自分が迷子になってしまったかのようで、何だか妙に不安が掻き立てられてしまいました。

 最初に立ち寄ったのが人麻呂公園。後述する、かつての天皇一行が狩りをした際の宿舎跡、が発見・復元されていました。また、園内には中国の兵馬俑のような人馬像も幾つか。

     

 しかし驚いたのは、狩りの宿舎です。

|やすみしし 我が大君
|高照らす 日の皇子
|神ながら 神さびせすと
|太敷かす 都を置きて
|隠口の 初瀬の山は
|真木立つ 荒き山道を
|岩が根 禁樹押しなべ
|坂鳥の 朝越えまして
|玉限る 夕去り来れば
|み雪降る 安騎の大野に
|旗すすき 小竹を押しなべ
|草枕 旅宿りせす
|いにしへ思ひて
                         柿本人麻呂「万葉集 巻1-45」


 人麻呂が文武天皇に随行して狩りに来たとき、この地で詠んだ歌ですが、これにあるように、狩りの宿舎とは「草枕」。つまりは、何と言いますか仮宮のようなものだとばかり思っていまして...。
 が、復元された宿舎は、きちんとした離宮宜しき佇まいで、面喰うこと頻りでした。

 ま草刈る 荒野がゆゑに
 草枕 仮初めて寄る
 醜家をも 柴の柩も
 夥し さも夥し
 みあらかゝ 玉の台か
 高照らす 時の日の皇子
 さてもおほどか

 すなはちの青人草のなに思ふつゝに訊かむやなに知りゐるを   遼川るか
 (於:人麻呂公園)


 引用歌と併せて。「高照らす」は日の皇子を、「坂鳥の」は朝越ゆを、「ま草刈る」は荒野を、それぞれ伴う枕詞です(同じく一般的なものは省略)。

 続いて訪ねたのは、万葉巡りの旅のメッカ。そう、かぎろひの丘です。

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

 讃良の孫、草壁皇子の遺児でもある軽皇子を連れて、狩りに出た一行は、いつものようにここ大宇陀は阿騎野の宿舎へ。明け方、空には「かぎろひ」が立ち...。

|東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 
                        柿本人麻呂「万葉集 巻1-48」


 かぎろひ。晴れた冬日の凍てつくような日の出前。東の稜線あたりが茜色や紫や、オレンジに染まるスペクトル現象のことだそうです。
 そして振り返り見ると、月が西の空で沈もうとしていて。

 壬申の乱で草壁皇子は吉野から、この阿騎野を経て出陣。有力な軍勢がこの地で集結したそうです。そして、その草壁亡き後、息子の軽皇子もこの地を訪れる。何でも成人式のような意味があったとか。
 「万葉集」にはこの狩りがいつ行われたのか、という点は記載されていませんが、かぎろひが現れた、という気象条件から東京天文台が割り出したのは、持統6年(692年)の陰暦11月7日、時刻は5時50分とのこと。毎年、陰暦11月7日には、かぎろひを見るイベントも開かれ、全国から万葉ファンが押し寄せるといいます。

 闇の端の こあゐ焦がして
 やまもとの あからけしつる
 伽羅、蘇芳 ゆかりの色の
 焔とも 朝行月も
 振るひては 兆すゆくすゑ
 むね描き 仕へて来たる
 歌主は わづか十歳の
 をのこゞへ 祝き囁けり
 いまはたゞ 広ごり靡く
 青田波 影すらもなき
 ひのもとのいめ

 黄葉の過ぎし御達に誘はれ参りし安騎の大野が真中   遼川るか
 (於:かぎろひの丘万葉公園)


 「やまもとの」はあか、「黄葉の」は過ぐ(死ぬの敬避表現)を伴う枕詞です。

 小高い丘は、まだまだ暑さの残る真昼。心に思い描こうにも、かぎろひは中々は見えませんでした。


 人麻呂の晩年には諸説があります。大宝2年(702年)の冬、讃良の東国行幸がなされていますが、既に人麻呂がこの行幸に従駕した形跡はありません。
 「万葉集」を見る範囲では、宮廷を離れた人麻呂は各地に足跡を残していて、最期は石見国で妻にも看取られずに他界。

|鴨山の磐根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-223」


 疫病死とも、刑死とも、殉死とも伝えられる人麻呂は、後の神亀元年(724年)には石見国高津に出来た、という人麻呂神社へ歌聖として、神として祀られたそうです。万葉2期の代表的歌人にして歌聖・人麻呂。私にとっては、高校時代から少しずつ詠み始めた長歌のきっかけとなった、歌人です。

  

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

 和歌や古典が苦手な方でも、教科書に載っていたこの2首はご存知でしょう。

|あかねさす紫の行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る
                           額田王「万葉集 巻1-20」
|熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな
                            額田王「万葉集 巻1-8」


 「あかねさす」は紫を伴う枕詞。

 万葉1期の代表歌人・額田王御製の有名な歌。彼女については、凡そ詳しい記述がなく、未だに謎めいています。「万葉集」に収められている歌は12首。万葉1期の歌人としては最多で、恐らくは日本最古の詠むことを専門とした宮廷歌人であろう、ともされています。
 ただ同時に、その残されている12首についても、別作者の説があるものもあったり、歌風が様々なことから歌の依頼主に合わせて詠草する、言わば「代作」の歌人という評もあったり、と他の歌人と比較すると歌から彼女という人を推し量るのがやや困難でもあります。
 ...代作に関してはトランス状態=依代、というキーワードで個人的には、強引に納得してしまっていますけれども。上記の「熟田津の〜」も山上憶良曰く、斉明天皇の代作と左注には記されていますが...。

|右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、飛鳥岡本宮に天の下知らしめし
|し天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇・大后伊豫の湯の宮に幸す。後
|岡本宮に天の下しめしし天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征して始めて海
|路につく。庚戌、御船、伊豫熟田津石湯の行宮に泊つ。天皇、昔日より猶し存れる物
|を御覧し、當時忽感愛の情を起す。所以に歌詠を製りて哀傷したまふといへり。す
|なはちこの歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首あり。
                          「万葉集 巻1-8」左注による


 生没年すら不明な額田王に関して、「日本書紀」に残る唯一の記述は、

|天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女を生まれた
                      「日本書紀 天武天皇2年(673年)2月」


 とあるだけで、何処の誰なのかすら伝わっていません。後には大海人皇子の兄、中大兄皇子に召され、その中大兄皇子はそれまでの妻・鏡女王(額田王の姉、とされる)を中臣鎌足へ下賜。やがて中大兄皇子は天智天皇となり、その後宮へ。
 壬申の乱平定後は、それまでのような華やかな表舞台から離れ80歳まで、と言われる余生を過ごした、とされています。

 余談ですが、彼女の唯一の子供である十市皇女は、天智天皇の息子・大友皇子に嫁いでいて、でも実は天武の息子である高市皇子と相愛であったらしく...。
 夫と父が、夫と愛人が戦った壬申の乱で、心に深い瑕を負った彼女は、やがて泊瀬倉梯宮の斎王となる為に旅立つ直前、30歳前後という若さで他界。恐らくは自殺であったであろう、とされています。
 十市皇女の歌は「万葉集」には収められていませんが、彼女を失った高市皇子の歌3首(「万葉集」収録の高市皇子の歌の全て)と、彼女の侍女・吹黄刀自の歌1首、という形で「万葉集」にその足跡を残しています。

|山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
                           高市皇子「万葉集 巻2-158」
|川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて
                            吹黄刀自「万葉集 巻1-22」


 また、私が知る限り十市皇女の歌は1首のみ。伊勢からの帰り道に立ち寄ったとされる神波多神社の伝承に

|霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜わがひとり寝む
                          十市皇女 神波多神社伝承


 とあるだけです。額田と十市を語る時、よく言われるのが先ず、歌の才が余りに違うこと。ゆえに十市の歌は「万葉集」に収められなかった、ともされていますし、同時に奔放に、力強く自由な恋愛を謳歌した額田に対し、それが出来なかった十市、という所謂「出来すぎた非凡な母vs人並みの娘」という図式です。
 正直、これには個人的に身に詰まされる部分が大きく、実は十市にはかなりな親近感というか、思い入れがある私です。

 そんな娘に対して母親・額田は、というと...。個人的に感じる額田王という人は、言霊に選ばれた人だったのだろうな、と。件の「あかねさす〜」にしても、天智が即位した年(668年)、蒲生野遊猟(5月5日)で詠まれているのですが、少し考えればこんな背徳の歌が残っていること自体が疑問な訳で。現在では遊猟の後の宴席で面白可笑しく、座興として自虐風に詠んだというのが一般的な解釈。
 ...と、したとしても、それが出来てしまうことこそが、やはり代作歌人と言いますか、自らの魂とは全くの別次元で、溢れ出す言の葉を自由自在に操れたのだ、と思ってしまいますね。
 そんな額田の代作ではない、本当の魂が垣間見られる歌ですが、

|君待つとわが恋ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
                           額田王「万葉集 巻4-488」
|風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
                           鏡女王「万葉集 巻4-489」
                * 全く同じ2首が「万葉集 巻8-1606、1607」にも収録


 という、かつて中大兄皇子を巡ってしまった姉妹のやり取り。曰く
「あなた(天智)を待って恋しく思っていると戸口のすだれを動かして、秋風が吹いて来ます(あなたが来てくれた思ったのに、がっかりしました)/額田王」
「風さえ恋うるあなたが羨ましい。誰も訪ねてくれない私は風だけでも待つことができるなら、これほど嘆かないのに(来てくれる人がいて、待てるあなたはいいわね)/鏡女王」
 なる少々どろどろしたものが1つ。そして、もう1つが、晩年。流石の彼女も寂しさを正直に吐露しているものです。

|古に恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
                           弓削皇子「万葉集 巻2-111」
|古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きしわが念へる如
                            額田王「万葉集 巻2-112」


 讃良の威光が行き渡っていた時期、宮廷で主流派になれず鬱屈とした日々を送る弓削から届いた歌へ、老いを見詰めて静かに暮らしていた彼女は応えます。
「昔を懐かしむ鳥が吉野の弓絃葉の井戸の上を鳴き渡っていっています/弓削」
「かつてを偲んで鳴くという霍公鳥。きっと私達と同じ気持ちで啼いているでしょうね/額田」
 この歌に対して弓削から苔の生えた松の枝が、返礼として届けられます。すると額田はそれへの返しとして、もう1首。

|み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく
                            額田王「万葉集 巻2-113」


「吉野の松の枝が愛しい。大切なあなたの言葉を持って来てくれるのだから」
 と。...2人の関係がどんなものだったのかは良く知りません。ただこの頃、額田は60歳近かった筈で、弓削は20歳前。...やはり、非凡な人です。

 

 そんな額田王終焉の地、とされているのが国道166号から山道を登った所にある粟原寺跡。既に残っているのは塔と金堂の礎石のみで、鬱蒼とした森の中にただ歌碑だけが、誰かが訪ねて来るのをそっと待ち侘びているように立っていました。
 歌碑の歌は「古に恋ふらむ〜」。

 鳥網張る坂登り詰め木暗は時が止まりぬ 息嘯も洩るゝ  遼川るか

 ひそと咲く花なればこそ愛でたけれ幸ふ時は覚えぬあはれも  遼川るか
 (於:粟原寺跡)


 「鳥網張る」は坂を伴う枕詞。

 年表に照らし合わせると、この2首を最後に「万葉集」から額田王の名前は消えます。最古にして史上屈指の専門宮廷歌人。言霊の寵愛を一身に受けたであろう天才女流歌人のその後の足跡は、粟原にて途絶えたままになっています。

         







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