旅行2日目。夜行で奈良入りしたのだから、ぐっすり眠って...、と思いきや、なんやかやで結局夜中3時の就寝。にも関わらず、朝の7時にはホテルを出発しました。目的地は吉野。万葉巡りには、先ず外せない場所ですし、同時に讃良の足跡という意味でも、絶対不可欠な土地です。 橿原の宿から一路、国道169号を南下します。運転していて最初こそ気づかなかったのですが、何となく引っ掛かりを感じたことが1つ。169号という道路に聞き覚えというか、何と言うか...。 思い出しました。半年前に出向いた熊野詣で、新宮市と本宮との行き帰りに走ったのが、国道168号。そしてその168号と途中で枝分かれしていたのが国道169号。つまりは、このまま走り続ければ、熊野本宮へ辿り着けるということになりますか。 ...半年前も、今回も私が旅に出た理由は全く同じ。もうこの世にはいない人との思い出にひとつの区切りをつける為、です。 いまもなほ空耳絶えぬ 呼ばれてはまた振り返るたれもをらぬに 遼川るか (於:吉野へ向かうR169路上) やがて、目の前に広がる緑色濃い山々。地元・神奈川では考えられないような、澄んだ水の流れ...。 ここが、吉野。天智天皇政権時に身を守るべく遁世した大海人皇子と讃良の一行が辿り着いた土地。そして時を得るや一気に攻勢に転じて、壬申の乱の火蓋が気って落とされた土地。さらには、その天武の他界後に皇位を継いだ讃良が、在位9年の間に31回も行幸を繰り返した土地です。 最初に吉野歴史資料館を訪ねます。時間が早く、開館と同時に見学開始。おまけに学芸員さんにマンツーマンでお話を伺ったり、この後の行程の道順を教わったり、と大満足。館内で売られていた色々な資料の内、万葉関連のものと、西行関連のものを2冊購入。外へ出て、資料館裏の高台を登ります。学芸員さんに教わった、この界隈で唯一、青根ヶ峯が見えるポイントが目当てです。 |み吉野の 耳我の嶺に |時なくぞ 雪は降りける |間無くぞ 雨は降りける |その雪の 時なきがごと |その雨の 間なきがごと |隈もおちず 思ひつつぞ来し |その山道を 天武天皇「万葉集 巻1-25」 「山道を、九十九折りの山道を絶えず物思いに耽りながら歩いて来た。あの青根ヶ峯にふる雪のように絶え間なく...」 歌意は、こんな感じでしょうか。天武天皇御製の追憶の歌。では、一体、いつのことを思い出してのものなのか、と言えば天智10年(671年)、近江大津宮から落ち延びた後、吉野へ入った時のことであろう、とされています。 この後の歴史は皆さまご存知の通り。天智崩御・壬申の乱勃発・大友皇子自害・壬申の乱平定・天武天皇即位、となります。 当時は一夫多妻制でしたから、そういう意味では家族という概念自体が現代とは大きく異なっていたでしょうし、ましてそれが権力構造に取り込まれている支配階級なら、なおさらなんでしょうけれども...。 天智天皇と天武は兄弟、天武の妃・讃良は天智の娘、敵方の大友皇子とは兄弟となり何となく、少し哀しいかな、と。 はろ/\の 流れ変へたる 身の辿り 宥めし峯も はろ/\に 兄に逆らひ 父背く ほどに篤かる 心掟 あれもせまくほし 変はるとふ ことのあらざる こはき思ひを 群山は青根ヶ峯を覆ひては耳我の嶺のこもりてやまず 遼川るか (於:吉野歴史資料館敷地内、青根ヶ峯が見える唯一のポイント) 実際に見る耳我の嶺(青根ヶ峯)は、正面に聳える三船山と象の中山の間、幾重も連なる峰の一番奥に霞むようにぼんやりと見えました。あんなに遠くを天武は眺めていたのですね。そしてその隣には、讃良とその息子・草壁皇子も寄り添っていたのでしょうか。 耳我の嶺は諸説あって特定不能、と聞いていたのですが、学芸員さん曰く青根ヶ峯でほぼ間違いない、とのこと。これは想像もしていなかった大収穫でした。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 今でこそ「国/くに」、と言えば所謂、国家全体や国土全体を示す言葉ですが、万葉の時代は小地域を表していたそうです。吉野は大和国の一部ではありましたけど、山によって隔てられていた為、1つの地域、と認識されていました。 |やすみしし 我が大君の |きこしめす 天の下に |国はしも さはにあれども |山川の 清き河内と |御心を 吉野の国の |花散らふ 秋津の野辺に |宮柱 太敷きませば |ももしきの 大宮人は |舟並めて 朝川渡る |舟競ひ 夕川渡る |この川の 絶ゆることなく |この山の いや高知らす |水激る 瀧の宮処は |見れど飽かぬかも 柿本人麻呂「万葉集 巻1-36」 「御心を」は吉野を、「花散らふ」は秋津を、「ももしきの」は大宮を、それぞれに伴っている枕詞です。 この歌にも「吉野の国」と明確に表現されていますね。余談になりますが、吉野同様に「国」とされていた大和の地域には、旅行4日目に出向く予定の泊瀬があります。そして、吉野も泊瀬も明日香や藤原、平城宮に暮らす当時の人々から見れば、ちょっとした旅の目的地ということにもなっていました。 では、彼らの旅心を掻き立てたものは一体、吉野の何だったのか。 それは、川。吉野川の清い悠久の流れだったそうです。どうしても西行の印象や、王朝文学のそれも薄れ難い私には、吉野というと川でありながら、桜や雪となってしまいますが、これらは全て時代ごとに移行しているんですね。 つまり万葉は川、平安は雪、中世以降は桜、と。 |
当然、「万葉集」の中にはこの川に纏わる細やかな呼称が幾つか出て来ます。「激つ河内」「夢(イメ)のわだ」「象の小川」「菜摘の川」「六田の川or六田の淀」...。 今回、少し場所が離れている「六田」までは周り切ることができませんでしたが、それ以外はしっかり観てきました。 |山川も依りて仕ふる神ながら激つ河内に船出せすかも 柿本人麻呂「万葉集 巻1-39」 激つ河内。吉野歴史資料館の学芸員さん曰く、 「道を下っていって、芝橋を渡ります。橋の手前に激つ河内に関する歌碑がありますし、橋の途中で右手を見れば、激つ河内が見られますよ」 実際、橋の上から眺めた吉野川は、距離がかなりあるのに、川底まで見えるほどに澄んでいて。その流れを右側へ辿ると、恐らくは岩盤が露出しているのでしょう。その1箇所、本当に川の中程だけ、流れが岩にぶつかって波立ち、白い飛沫が際立っていました。また、その白さゆえに吉野川の流れの激しさも、物語られているようで...。 後日、周った明日香などで感じたのですが、とにかく川が穏やかなんですね。だけど、吉野川は違う。その驚きが「激つ河内」という言葉に表れたのでしょう、きっと。 譬へ岸にひそと寄せ来る川浪とても 滾りゐる半ばし抱く流転の定め 遼川るか (於:吉野川・激つ河内) −・−・−・−・−・−・−・−・− 激つ河内へ向けた視線を、さらに右側へと進めると、吉野川へと注ぎ込む小さな流れが...。周囲の水の色は一層濃く、恐らくは川底が侵食によって他よりも深い、淵のようになっているのだと思います。 |夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば 作者不詳「万葉集 巻7-1132」 「夢のわだって、夢ではなくなりました。言葉だけのものになりました。だってずっと観たくて思い続けて来たんですもの。だって実際にこの目で観て来たんですもの」 「夢のわだ」を見た時の、私の気持ち。それをこれほどに言い表してくれる歌はないでしょう。それがどんなに静かに、足の爪先からゆっくりゆっくり迫り上がって来た感情の波だったのか、どうも巧く表現できません。今回の万葉巡りの目的地の中でも、ベスト5に確実に入る、個人的に拘っていた場所でした。 わだ、というのは川が入り江のようになっていたり、曲がり込んでいる場所のことなのですが、合流する2つの流れ。そこは必然的に穿たれて淵になり、でも1つの流れになって、流れ行く。仮にもし、その流れが分かたれることがあっても、いずれ海という大いなるものへと等しく辿り着ける筈なわけで...。 亡母とのぶつかり合いで心に穿たれてしまった淵。でも歌を通して繋がっている一筋の流れ。そしていつか、私にも彼女と同じ場所へ帰る日が来ます。 あゆり合ふ 水尾ふたつ 淵うがち いづれ変はらず 浅まらず 瀬にはなゝりそ いめのわだ 違ふを覚え 尊びて ひと遇ふ辻の 夕占に なに授かるや 行き当たり ゆゑ生ひ初むる さやけさは 知りほる胸の 栞りうるもの いづれまた分かたられども流れの果ては 重ね合ふ永久にまたなきわたとふ楽土 遼川るか (於:吉野川・夢のわだ) −・−・−・−・−・−・−・−・− 夢のわだにて合流する2つの流れ。1つは吉野川ですが、もう1つの小さな小さな小川。これが「象の小川」です。 象の小川は、吉野の金峰山と水分山から流れ出た川が合流したもので、現在の正式名は喜佐谷川。宮滝地区の真正面に聳える、象の中山の麓を流れて吉野川に辿り着きます。 |み吉野の 吉野の宮は |山からし 貴くあらし |川からし さやけくあらし |天地と 長く久しく |万代に 変はらずあらむ 幸しの宮 大伴旅人「万葉集 巻3-315」 |昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも 大伴旅人「万葉集 巻3-316」 万葉2期の終わり頃、大伴家持の父親・旅人が聖武天皇の行幸に同行した際に作った長歌とそれが伴う反歌です。内容的には、ままありがちな宮廷讃歌なのですが、面白いのは、この手の歌は天皇の前で詠み、献上してこそ、のものなのにも関わらず、何故かお蔵になったと言われているものです。 そして反歌の方は、聖武天皇よりずっと昔。20年以上も前に崩御している讃良の行幸に同行した時のことを回想してのもの。 「20年経って、益々象の小川は澄んできた」 と。 芝橋を向こうへ渡りきり、崖下に夢のわだがある地点から象の小川に沿って、象の中山へ入って行きます。 いさゝがはその浅ければ細けれど 絶えぬかうどの千代なるものを 遼川るか (於:吉野川・象の小川) 大伴旅人が回想したのは20数年前。そして私はそれから1000年以上の時を経て象の小川に沿って歩きます。時は流れ、人は逝き、時代は変わり、けれども小さくて浅い、堰き止めたらすぐにでも絶えてしまいそうな小川は、今も変わらずに川音を響かせていました。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 象の小川沿いに続くゆったりとした上り坂は片側が山、片側が棚田になっていて、時折、吹き寄せる風に稲が軽くうねる、という何処か懐かしい原風景が広がっていました。 稲はまだ青く、でも何処となく少しずつ黄味を宿しているようでもあり...。俳句の季語にある「田の色」ってきっとこんな感じなのかな、など考えながら歩くこと10分程度。噂に聞く屋形橋(屋根付きの橋)があり、その橋で象の小川を渡ると、桜木神社です。祭神の1人は天武天皇。 近江から吉野へ逃れてきた大海人皇子はある日、大友皇子の刺客に命を狙われます。その時、身を隠したのがこの神社にあった大きな桜の木で、以来皇位に就いてからも行幸の度にこの神社へ参拝していた、という伝説が残っています。 |み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも 山部赤人「万葉集 巻6-924」 境内に残る歌碑に彫られている歌です。神社自体は病気平癒が主な霊験とされていて、ふとノーラさんやお膝が思わしくない扇さん、そして未だ治療法の見つからぬ難病で他界した亡母のことなどを思い出し、験担ぎに御神籤を。 運勢は「吉」、そして肝心の病気については「安心しなさい 快くなる」。願望は「小事ならば早く叶うが大望成り難し お祈りせよ」。...どっちに採ればいいんでしょうか。 さやけしや御籤のこして古社を去る 遼川るか (於:桜木神社) あともう1つ、覚えている件は、旅行。「旅立てよいことあり」。...これは、確実に当たっていました。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 再び、屋形橋を渡って元来た道へ。「万葉集」からは逸れますが、この屋形橋に纏わる説話もあります。...万葉、西行以外で吉野縁の人物と言えば、義経です。 何でも、義経が吉野山から落ちのびてようやく吉野川の近くまで来た時、象の小川に掛かる、屋根を葺いた橋がありました。疲れと、余りに長閑な景色に思わず義経は、その橋でうとうと。以後、その橋は「うたたね橋」と呼ばれ、桜木神社の参道の橋は、うたたね橋のイメージを再現したものだ、とのこと。 行きとは逆の下り坂を進み、再び吉野川の崖の手前まで来た時、少し奥まった所に立て札がありました。うたたねの橋があった場所なのだそうです。 水澄むや瀬音ゆかしき子守唄 遼川るか (於:うたたね橋跡) 個人的には義経、というより静なんですけれど、とにかくそちら関連でも、吉野には見たい場所がまだ残っていますね。何せ謡曲「吉野静」や「二人静」にも謡われる |賎やしづ賎のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな、 |吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人のあとぞ恋しき 静御前「義経記」 のもう1つの舞台ですから。地元・神奈川の鎌倉とは別の。 −・−・−・−・−・−・−・−・− 芝橋を渡って戻り、宮滝遺跡へ。斉明朝・持統朝・聖武朝とが少しずつずれながら重なった形で遺跡が発掘されているようですが、既に再び埋められているのでしょうか。石碑と案内板はあれど...。 |淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見 天武天皇「万葉集 巻1-27」 左注に拠ると、天武8年の5月5日に詠まれたとあり、この翌日には「吉野の盟約(別称・6皇子の盟約)」が結ばれています。つまり天武の息子である、草壁・大津・高市・忍壁と、天智の息子ではあるものの、天武や讃良に忠誠を誓った川嶋・志貴の6人の皇子に 「勅に従ひ、相扶ける」 ことを天武は誓わせ、後に皇位を争わないように布石した、というわけです。 吉野をよく見よ、とは壬申の乱、あの戦乱を忘れてくれるなよ、という裏の意味が込められています。 でも、そうまでして誓っても、時代は同じ道を歩みます。いや、もしかしたら壬申の乱を乗り越えたからこそ、なのかも知れませんが...。 天武他界後、自ら皇位についた讃良は、我が子・草壁に皇位を継がせる為に大津を誅し、肝心の草壁が皇位継承前に他界してしまうと、今度は孫の軽皇子、のちの文武天皇へ皇位を継承させる際に、弓削皇子を退け...。 石碑と案内板が立つ宮滝遺跡には、ただただ時の奔流と、いつの時代も変わらぬ人間の権力欲とが滲んでいるような気がしてしまいました。 クニ吉野 象に三船の山が守る思ひなほもし薫りゐるクニ 遼川るか (於:宮滝遺跡) 一方、皇位継承に敗れた弓削が吉野で詠んだ歌です。 |滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに 弓削皇子「万葉集 巻3-242」 |み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに 弓削皇子「万葉集 巻3-244」 −・−・−・−・−・−・−・−・− |
吉野を去る前にもう1箇所。どろどろした権力争いとは一線を画した、万葉後期の歌に詠まれている、清冽な景色を眺めに菜摘十二社神社へ。 |吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして 湯原王「万葉集 巻3-375」 |大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ 兵部川原「万葉集 巻9-1737」 いずれも吉野の菜摘地区を流れる吉野川を詠んだものだそうですが、実際の菜摘もまた、今なお静かで何処か、欲深き人間を拒んでいるような風情でした。 しづやかに水を湛へて菜摘川あたらこもりて人をつきみぬ 遼川るか (於:菜摘十二社神社) 次第に遠くなる川音を背に、大宇陀方面を目指します。讃良が史上最強の女帝であったのなら、こちらは「万葉集」に最初に登場する専門宮廷女流歌人と、「万葉集」最高と称えられている、歌人の足跡です。 |
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