発案から、たったの1週間。仕事をしながら怒涛の勢いで、様々な手配や準備を纏め上げたのは出発当日の夜。残念だったのは、事前のおさらい学習が殆どできなかった点ですが、それでも胸の高鳴りは抑えきれず、
「少し早過ぎるかな...」
と思いつつもアパートを出発。持ち物は一般的な旅行必需品と、モバイル関連一式、古語辞典、歳時記、古語逆引き辞典、古文法参考書、「万葉集」、...そして、病床で撮った亡母の写真。

 爽籟や千三百年の旅心   遼川るか
 (於:出発前自室)

 夜行に乗り一路、奈良を目指します。しばらくはガイドブックなどを眺めていましたが、次第にうとうと。目覚めれば、もうそこは万葉の地です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 奈良到着。事前の天気予報では相当暑い、と言っていたわりには妙に涼しく、少し肩透かし。レンタカーの営業所が開くのを待ちながら、ぼんやりしていたのですが...。眺め見る街中の看板にも、舗道脇のラックに無造作に差されているフリーペーパー類にも、みな一様の文字。
 「万葉」...。ようやく自分が既に万葉の地に立っていることを実感し始めました。そして同時に思い出したのが、「万葉集」の最初の歌です。

|籠もよ み籠持ち
|堀串もよ み堀串持ち
|この岡に 菜摘ます子
|家聞かな 告らさね
|そらみつ 大和の国は
|おしなべて 我れこそ居れ
|しきなべて 我れこそ座せ
|我れこそば 告らめ
|家をも名をも 
                       大泊瀬稚武天皇「万葉集 巻1-1」

 詠み手・大泊瀬稚武天皇は、雄略天皇と言った方がわかり易いかも知れません。一般に万葉集は推古天皇までを万葉萌芽期、として万葉1期は舒明天皇の即位から大化の改新を経て、壬申の乱の平定までを指します。
 が、この雄略天皇はそれよりずっとずっと前。推古朝より130年も前の人。この歌が何故、第1首目に据えられているのかは、万葉集の編纂に大きく寄与した、とされている大伴家持にでも訊いてみなければ判らないお話ですが、それでもこの歌が当時の価値観では、とても縁起のよい、言祝ぎ歌であることには違いありません。

「籠とへらを持って菜を摘む乙女よ、家と名前を言いなさい。私はこの大和の国をすべて所有している。一面、私が治めているのだ。先ず、私から告げよう。私の名前と家を」

 今で言うプロポーズの内容ですが、私には天皇の統治による、そこに居るもの、あるもの、全ては天皇に帰す、天皇とはそれほど偉大なのだよ、と言っているもの。そうも思えてしまう歌です。
 ...歌を離れれば皇室礼讃には縁遠い人間なので、今ひとつピンとは来ませんが、それでもここより「万葉集」は始まるのですから、何はともあれご挨拶の拙歌を。「空に満つ」は大和を伴う枕詞です。

 空に満つ大和にこそに参りつれ いざ告げむとや家言はむとな  遼川るか
 (於:近鉄奈良駅構内)

 レンタカーを駆って最初に向かったのは斑鳩の里です。

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 斑鳩。奈良、もしくは大和朝廷と言えば確実に名前が挙がる地名ですが、これが万葉となると、そうでもありません。事実、「万葉集」に斑鳩の地に由来するのはたった2首のみ。殊、法隆寺などが多く詩歌に詠まれるようになるのは明治期以降です。では何故、訪ねたのか、と言えば単純に厩戸皇子、つまりは聖徳太子がちょっと好きなものでして。
 この日は、とにかく行程がぎっしり詰まっていたので、駆け足で法隆寺と中宮寺のみ、拝観しました。

 深みこそ帯び初むる蒼、空応へ 鐘楼生める声のひとつを  遼川るか
 (於:法隆寺・南大門)


 法隆寺の南大門に立った時、恐らくは鐘楼からと思われる鐘の音が1つ。思わず見上げた仏声の反響する空は、少し高くて、確実に秋が近づいて来ていることを教えているようでした。

 

|家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ
                        上宮聖徳皇子「万葉集 巻3-415」


 「万葉集」にたった2首しかない、斑鳩縁の歌の1つは、聖徳太子御製。行き倒れの旅人への挽歌です。その聖徳太子、と言えばやはり夢殿ということで、広すぎる法隆寺の中、一番時間を割いて見学したのもまた、夢殿でした。

 幾多にも 稜積みゆけば
 円むると 巡るゝ声を
 余さずに 聞き得し聖人
 諭し続くる

 円かへと向かふかうつほのちさき堂 真中の孤独、寄る辺なさゝへ  遼川るか
 (於:法隆寺・夢殿)


 玉砂利につんのめるように歩き続け、法隆寺のお隣、中宮寺へ向かいます。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 法隆寺が夢殿なら、中宮寺はやはり本尊の如意輪観世音菩薩半跏像、という完璧に初心者コースを踏襲しつつ訪ねた新本堂。入口周りの池では長閑に亀さんたちが甲羅干し中。
 禅寺である法隆寺に対して、尼寺である中宮寺はどこか柔らかい印象が、そこここに漂っていました。

 程も良く 力抜かゆるを
 美しきとふ アルカイックな
 ゑみがほは 硬き構への
 世人に告ぐる

 満たなくば憂きと覚ほゆ 門中深く揺蕩ふいをにはとほき/\空  遼川るか
 (於:中宮寺・本尊如意輪観世音菩薩半跏像)


 私は仏像などの造形美には、あまり興味が湧かない人間なのですが、流石にこれは美しいな...、としみじみ眺めてしまったもの。そう、菩薩半跏像です。何でもスフィンクス、モナリザと並ぶ「世界三大微笑像」のひとつなのだそうですが、全て見た(モナリザは複製)上でも、一番胸の奥にじんわりと響いた気がしています。
 駆け足で斑鳩を後にして、次なる目的地は西の京。...讃良の足跡が待っています。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 西の京。こちらにも奈良観光では、確実に外せない名刹が2つ。薬師寺と唐招提寺です。当然、私もこの2箇所は拝観したのですが、それぞれに託した思いは、全く違います。唐招提寺は言わば、お約束とでも言いますか、取り敢えず押さえておくべき、との思いから。一方の薬師寺は...。

 薬師寺。壬申の乱を平定し、皇位についたのは大海人皇子・天武天皇ですが、その天武の皇后こそが讃良、のちの持統天皇。そして薬師寺は讃良が天武の病気平癒祈願の為に建て、でも完成を見ずに天武は他界。独り残された彼女がそれでも造営を指揮し続けて完成させた、と言われています。
 「万葉集」に収められている讃良の歌は、6首。うち半分の3首は夫・天武を失った悲しみの内に詠まれたものです。

|やすみしし わご大君の
|夕されば 見し賜ふらし
|明けくれば 問ひ賜ふらし
|神岳の 山の黄葉を
|今日をかも 問ひ給はまし
|明日もかも 見し賜はまし
|その山を 振り放け見つつ
|夕されば あやに悲しび
|明けくれば うらさび暮らし
|荒栲の 衣の袖は
|乾る時もなし
                         天武天皇大后「万葉集 巻2-159」

 「やすみしし」はわご大君、を伴う枕詞です。

 海中の竜宮城に譬えられたほど、との評判通り、所々に施された朱色や濃い緑がとにかく鮮やかで。初秋の蒼い、蒼い、空に聳える五重の塔など、確かに自分が立っているのは実は地上ではなくて、海底。空は海。...そんな空想を掻き立てられた光景でした。

 
                 
       

 海中にあるとふ浄土は隆起せり 朱にこみどりに映ゆる精舎も  遼川るか
 (於:薬師寺)


 讃良の足跡もそうですが、実は薬師寺にはもうひとつの拘りがありました。それは「仏足石歌碑」。そう、575777という仏足石歌体の歌が、万葉仮名で刻みこまれた国宝です。

 仏足石歌。私が知る限り、この薬師寺の歌碑にある21首と、「万葉集」に収められている1首、古事記の1首を除いては、仏足石歌を見かけたことはありません。播磨風土記に収録されている、とは聞いたことがありますが、現時点で私自身は未確定。仏足石歌と同じく、現代ではおよそ知っている人の少ない旋頭歌は、それでも片歌との関係からなのか、現代にほど近い明治期には、正岡子規が熱心に詠んでいた記録もあり、片歌も今なお連歌関係者の中には詠んでいる方もいらっしゃるようです。
 が、正直、この仏足石歌が詠まれている、ということは殆ど聞きません。

|御足跡作る 石の響きは 天に至り 地さへ揺すれ
|父母がために 諸人のために
                         文室真人「仏足跡歌碑第一歌」
|弥彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ
|皮衣着て 角つきながら
               
             作者不詳「万葉集 巻16-3884」

 偶々、ふと思いついて詠んでみただけ。きっかけは、たったこれだけでしたが、21世紀の今となっては自分も貴重な詠み手の1人なのかも知れない...。そう思うと少し背筋がしゃんとしてきます。

 仏足石歌の歌体は、通常の短歌を詠み、そこへ更にもう1句。まるで言い残すことがないよう、一言添えるかの如く5句目と対句になる7音をリフレインさせる、というものですが、私個人はあまりこの形式には拘っていません。ただ、6句のうちで、自分にとって最も重い意味を持つ言葉。それを載せるようにはしていますが...。 
 
 こになくば残らぬ古言 当世の歌主ひとり
 継ぐ八雲色 千三百年の          遼川るか
 (於:薬師寺・仏足跡歌碑)


 つい半べそをかきつつ、仏足跡歌碑を眺めていたら、お寺の方が話し掛けてくださいました。お作法は守っていないが、それでも仏足石歌を詠んではいる、と伝えると
「...有り難う、どうかずっと続けていって下さい」
 と言葉を掛けて戴きました。

 駐車場には戻らず、ここから徒歩でお隣の唐招提寺へ。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 薬師寺から唐招提寺へと続く一本道は、案内板によると「歴史の小径」と言うとか、言わないとか。でも、言い得て妙、なのかも知れません。
 壬申の乱の平定まで、とされる万葉1期。続く万葉2期は所謂「白鳳」のことで、平城遷都までを言います。続く万葉3期が天平5年(733年)まで。そして最後の万葉4期が天平宝字3年(759年)まで、つまり「天平」文化の真っ盛りの時代こそが万葉4期となります。

 向かう先である唐招提寺はまさに万葉4期の終わりの寺で、歩き始めた薬師寺は万葉2期の寺。白鳳から天平へと続く一本道の真ん中あたりに、朝顔が一輪咲いていました。もうお昼過ぎ。萎み始めながらも、それでも何とか咲き続けようとしている姿が印象的でした。

 歴史路 朝顔あたりが平城京   遼川るか
 (於:薬師寺〜唐招提寺)


 俳句というより殆ど川柳ですが...。 

  

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 唐招提寺は生憎、金堂が修繕中でした。そして、斑鳩同様「万葉集」とはあまり関連していません。私が知る範囲では1首、唐招提寺にかつてあった池で詠まれたらしい、といわれている歌がありますが、それについては個人的に別枠にしていた為、事実上それほど観るべきもの、観たいものに、ちょっぴり恵まれない。そんな結果になってしまいました。
 問題の池とは別のものでしょうが、敷地内の池では蓮の花が沢山咲いていました。

 こゝのつの昼や蓮の実飛び初むる  遼川るか
 (於:唐招提寺)


           

 それでも、鑑真和上という方の生き方には、ひとつのヒントを感じているのもまた、確かです。遣唐使から日本へ来て欲しいと乞われ、来日を決意。けれども当時の唐の国は鑑真の出国を許可せず...。事実上の密航に挑むこと6回。途中、失明までして、ようやく日本の大地を踏み、仏教の発展に力を尽くした、という鑑真の道程は余りにも有名なお話。
 でも何故、鑑真は唐での地位も安定もある生活から、敢えて苦難の来日を選んだのか。...もし、私が彼ならきっと、こう答えます。
「自分を1番必要としてくれたから。自分を必要としてくれる人の居る場所が、自分の居場所だから」

 盲ひても絶ゆることなく榜ぎ出でゝ人は住処をみなほりすもの  遼川るか
 (於:唐招提寺)


 歴史の小径を再び戻り、問題の池を探します。 

              −・−・−・−・−・−・−・−・−

|勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし  
                          作者不詳「万葉集 巻16-3835」


 唐招提寺は天武天皇の皇子の一人、新田部親王の旧宅を利用して建てられたもの。そして、その新田部親王に纏わる歌です。
 「万葉集」曰く、この歌の左注にはこうあります。

|右はある人聞きて曰く「新田部親王、堵の裏に出遊す。勝間田の池を御見して、
|御心の中に感緒づ。その池より還りて、怜愛に忍びず。時に婦人に語りて曰く
|『今日遊行びて、勝間田の池を見る。水影濤々にして蓮花灼々にあり。おもしろ
|き(*)こと腸を断ち、え言ふべくあらず』といふ。すなはち、婦人、この戯歌を作
|り、もはら吟詠す」といふ。
                        「万葉集 巻16-3835」左注による
               (*)正しくは「小何」怜という2文字でおもしろき、です


 つまり、新田部親王が
「勝間田の池に行ったら、水を濃く、深く湛え、蓮の花が燃えるように咲いていた。あまりに感激したので、あなたにお教えしたくて」
 と相手の女性を蓮の花に譬えて、気持ちを伝えようとしたんですね。...が、相手の女性は即興で歌を詠み、それに答えました。
「勝間田の池は私も知っているけど、蓮の花なんてないですよ。そういうあなたのお顔に髭がないように(全く、心にもないこと、仰らないで下さいな)」
 
 「万葉集」の味わいのひとつは、貴族だけではない一般の民草の歌や、こういう戯れ歌がきちんと収められていることだと思います。これが何れ、狂歌や俳諧へと繋がっていくのでしょう、きっと。

     

 勝間田の池。件の歌に詠まれた池とは違うかも知れませんが、少なくとも現代では大池と呼ばれる薬師寺の裏手の池、ということになっています。奈良の名所の写真によく登場する水辺の向こうに見える薬師寺の五重の塔、というアングルの水辺。これこそが現代の勝間田の池です。
 実際にほとりに立って見ると、案外に小さくて面喰らいます。また、どう考えても蓮の花が咲くようには思えませんでした。...でも、水に映った薬師寺の二つの五重の塔を眺めながら、ああ。本当にここは奈良なんだな、と朝からバタバタしていた1日だっただけに、少し人心地つくことができました。

 水鏡 地にそ聳ゆる龍宮を湛へつ五百重の波をし恋ふか  遼川るか
 (於:勝間田の池)


 拙歌中の「湛へ」は湛えると、称えるの懸詞になっています。

 白鳳と天平、万葉2期と万葉4期とを楽しんだ後は、万葉3期。そう、奈良平城宮跡へと道を急ぎます。








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