迷子の成熟/短歌

手首から先が翳つて、わたくしを感じきれない寂しさがゐる

アルピノの真つ赤な瞳をはめ込んだやうな初夏です 異端の証

個体である前に存在せよといふ風の唸りに耳を預けて

いつの間に上目遣ひが癖になつて こゝは海抜ゼロメートル地帯

散歩へとゆかうと思ふこの朝はまだアミノ酸だつた日のまゝ

爪先で立つても届かないまゝの傍観者だ、と ガラスの破片

幼さといふ凶暴のそのまゝに指を這はせたナイフ 地平が

不信感の熱に狂へた薄氷の日々 自転して公転もせよ

喪失と欠乏だけといふ偏愛 双葉の色が淡すぎるから

綾取りの両手を空にたゞ伸ばす 土に抱かれた息、濡れてゐる

道端にハイジの白パン、ふぬふぬと転がり落ちて 今宵も悪夢

一瞬で終はつてしまふ永遠は夏の色 でも冬に焦がれて

単調な等間隔の奥にまだ原始を忘れぬ草叢の香を

重力の所為にしてゐる 閉ざす眼の奥で滲んで気化した涙

夕暮れの空を湛へたシリンダー ひとしづくだけ目薬みたいに

浮く灰汁を掬ふ痛みを呑み込んで 太平洋に映る彗星

簡単に言葉にできてゐた熱を下げられなくて また長い夜

寂しさの描く放物線 通り雨にそろそろ追ひ越されるだらう

ベソをかく、あの猜疑心の申し子が 浮き輪もビート板もゝうない

牛乳のしづくを指で弄りつゝこの瞬間も緩やかに、老い

切り替はるサーモスタットの自己主張 凝らした息が東へ洩れる

雨雲に深刻ぶつてみたいけど 耳のうしろの光の草原

みづいろの光の中で行き先を見つけられない迷子の成熟

坂道を登る襟足、後れ毛があの湿原を忘れ始める

八月の終はりのやうな反抗期の葬送 ボール箱を封じて

わたくしの記憶を粗大ゴミの日に捨てた 真昼に月を探すな

ひと夜分、萎んだ風船 そんな日を迎へにゆける漂泊がある

残酷な愛とふ放熱 雲がゆく先にも空は広がつてゐる

失つた壜の欠片はうすいあを ひとつ地面に近づけてゐた

ざらざらの壁をなぞつた 滲みだす暗褐色のやさしさ、至上の

とほい眼でマジック・テープを引き剥がす 境界といふ名の裂け目たち

悲観主義 そんな時代をあとにしてけふアスファルト、あつたかゝつた

ファイティング・ポーズ それより両腕をおほきく広げておいで、宇宙よ

すれ違ふやうに絹糸、その縒りをほぐして縒つて 川は流れる

伸ばす手が触れられる距離 数億の光年越しに会へるのならば

交差する熱と寂しさ 絶え間ない反作用とふ深海は、夜

ボーリング機器の響きにゆつくりと揺り起こされる こめかみの脈

遮断機の反対側に透明な腕を伸ばして 海峡はあを

犬笛の騒音のなかうたゝ寝はわづかにズレた日々のトレース

手暗がりの中に潜んでゐるパズル 満潮時刻を待ちくたびれて

体内に諸島の地図を植ゑつけて偏西風にまた眩む午後

ひんやりとしたテーブルを抱卵し頬はちひさな海に溺れる

果てしない余白の荒野で見たのものをごくごく緩く抱きしめてゐたい

球体の孤独 抜けない棘といふ愛しさを負ふてのひらがある

隻腕のひと日を終へて 呑み込んだ錘がいまはかすかに愉楽

水際といふ密室にとゞまつてゐる海藻よ 月が満ちても

いまもまだ死なず天地の開闢のやうであれるか わたしの卵

揺れてゐる 波打ち際のわたくしはそぼ降るやうに沈む骨灰

鉛筆を削り削つて 最初の日、世界は夜から産み落とされた

いつだつて風から始まる 向かうにはまだ大陸があつたとしても







BACK