防人歌を見ていて感じるのは、陳腐ではありますが、そういう思想統制されていない人々の息遣いなんですね。暮らし向きが切実でない者ほど別れの哀しさにウェイトが掛かりますし、生活に不安のある者は歌にもそれが滲みます。また、天皇のご命令なのだから喜んで出兵します、などという発想はもちろんほぼ皆無。稀に1家、1族の代表として公用に就くことへの誇らしさを謡ったものならば見かけますけれど、その場合はまず間違いなくそれなりに裕福な家庭の人物が詠んでいます。
 ...仮に、
「もう帰って来られないかも知れない、これが今生の別れとなるかも知れない」
 という状況におかれた場合、最初に何を気に病むのか。...この点の相違は、すなわち生活に直結してしまうのが当然で、この現代でも変わらない、と思います。
 この歌の作者・龍も生活自体はそれほど切実ではなさそうですね。あるいは新婚さんだったのかも知れません。...何処となく陶酔が薫るように、個人的には感じますけれども。

 余談になりますが、もう1つ驚いてしまうのが大伴家持、その人です。防人歌は巻20。もう完全に彼が編纂していた時期の巻であることは間違いないので、これら防人歌の選者は十中八九、彼でしょう。ここまでにご紹介してきた防人歌は、各地から集まった青年たちが一堂に会した、難波津で提出されたものですけれど、その当時の家持の役職も兵部少輔。実際に難波津で防人たちの検校にも関わっていました。
 そして彼は、各地の人々の歌と出会います。

 赤心を捧げた聖武はもう亡く、藤原仲麻呂の専横に耐えかねては、暗殺計画に加わったり、謀反に連座したり、と政治家としての家持はどうして、どうして。なかなか骨太な存在だったようです。
 ですが、別の見方をするならば。...歌人としての当時の彼は、聖武を亡くした後だからこそ、縛られていた何かから解放されたのではないか、と。「あきづしまやまとゆ」にも書きましたが、防人歌を採っているだけではなく、彼は自ら暗殺までしようとした藤原仲麻呂の、専横の極みとも言える歌も「万葉集」にちゃんと採っているんですね。
 ...違う立場から見れば、ある意味で立派な反逆者とも言えそうです。

|いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は
                        内相藤原仲麻呂「万葉集 巻20-4487」


 イデオロギーとは別に、あくまでも歌は歌として。大和歌の選者として。在ろうと努めていたのでしょうし、在りたかったのだと思えてなりません。
 また、彼は知っていたように感じます。つまり、歴史には答えがないことを。時代の総括は、常にその時代より後世でのみ、なされるものであって、自身が存在している世に対する総括なんて、何人たりともできるはずもなく...。そして、後世で成された総括も、その次の世になって仮に価値観などが大きく変わってしまったならば。以前の総括は破棄され、新たな総括がなされます。
 そうやって世を経るごとにくるくる変ってゆく、総括という歴史の宿命を前に、果たしてひとに何ができるのでしょうか。
 恐らく、一切の私情を廃した、事実の記録。...これだけでしょう。


 もう沈没寸前の天平という船にあって、政治家・大伴家持と歌人・大伴家持の大きすぎる差異。そのきっかけは、1つということではないのでしょうが、少なくともそのうちの1つに、中央政治とは関わりなく、ただ心情を謡っただけの防人歌があったのではないか、と。
 そうわたしは感じています。

 万葉歌人のうち、36歌仙でもあるのは人麻呂・赤人・家持となりますけれど、恐らくは官人として最も安定していたのは赤人だろう、と推測します。人麻呂に浮き沈みが色々とあったらしきことは、何となく手繰れますし、家持に至ってはそれが記述として残っていますよし。
 浮き沈みの激しさは、同時に自身が立つ地表への疑問を惹起します。与えられた地表の上で、そこが箱庭であることすら気づかずに遊べるのなら、それはそれで幸せなのでしょう。
 ですがひと度、箱庭であることに気づいてしまったならば。もう、そこには留まれません。
...もう、戻ることはできないのです。

 島国・日本。その風土はいまだ変わらぬ徹底した村社会で、それぞれに帰属するもの、集団、環境などによる、見えない境界線が張り巡らされているとも言えます。そして、その境界線の中でのみ通用するルールを、疑うことなく人は呼吸します。境界の外にも世界はあるのに。ルールの外にも世界は存在しているのに。...右へ倣えで成り立ち、維持し続けられるのは、突き詰めるなら地続きではないからでしょう。

 ですが、家持に限らずひとは、そもそも完全なるニュートラルでなどいられません。彼には彼の基軸が存在して、同時にそれが時代の基軸と合致しなくなった、というだけ。単に結果論の範疇でしかない、とも言えます。
 政治家としての彼の基軸は、一も二もなく聖武への忠誠。では、歌は。大歌人・大伴家持の歌の基軸は何だったのでしょうか。

 ...判りません。ただ、明らかに感じるのは歌人一族・大伴氏の一員であることへの誇りと、歌という存在に対する絶対的な信頼、そして孤悲。歌が歌として、彼の生きた時代まで伝わっていたくれたことへの感謝と、それ故に歌の先人すべてへの敬仰と。
 そんな風にわたしは感じてしまいます。

 張り巡らされた境界線の中で暮らし続ける日本人は、自由が苦手です。いざ、
「好きにしていいよ、何をしてもいいよ」
 と許されると途端に、何をしていいのか、何をしたいのか判らなくなってしまう傾向は、現代でも変わらないでしょうね。そういう意味で自由と、その裏側にある責任は本来、とても過酷なものでもあるはずです。
 家持が防人歌に見たのは、知らず縛られていた自分自身だったのかも知れませんね。

 うつそみのきはみもふさに 
 知らまくほしきものあるに海を渡るも、山を越ゆるも  遼川るか
 (於:内裏塚古墳)


 龍については、種淮郡出身という以外は、一切判りません。また、種淮という土地についても、須恵は末、あるいは陶に通じる、とのことから製陶所があったらしきことを何かで読んだくらいです。何でも、この界隈は土器の出土がとりわけ多いのだ、といいます。
 製陶所があったと推測されているのは、現在の住所だと君津市の練木界隈とのことでしたけれど、かなり内陸部だったので今回は訪ねませんでした。珠名が合祀されている、という飯野神社(富津市)と併せて、またいずれ訪ねることにして、先を急ぎます。

        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 火曜日、ほんの5日前に木更津を訪ねたことが、何だか随分と遠い昔のことのように感じていました。これまでの東国の古歌紀行では、防人歌も、倭建も、蟲麻呂も。とにかく上代文学が好きで、万葉故地が好きで、という“好き”という大きなカテゴリーの中のものとしてしか受け止めていなかったわたしと、そこから少し進んでしまった今のわたしと。
 だから、素通りしてしまうべきか。あるいはだから、訪ねるべきか。躊躇してしまったポイントが富津市にあります。その名も吾妻神社。はい、木更津の吾妻神社同様に、弟橘の遺品が流れ着いたことから創建された、という伝承をもつお社です。こちらは袖ではなくて櫛、となっていますね。

 吾妻神社。前述もしていますし、それだけではなく吾妻神社という名と、弟橘の入水伝説に由来する、としているお社は、東京湾沿岸に限らずきっと、数え切れないほどあるでしょう。ですが、この無数にあるという現実が意味するもの。これに気づけるようになってしまった今のわたしには、火曜日以前のような華やぎと高揚をもって、吾妻神社を参拝することは、きっとできないと思います。
 すでに何度か触れましたが、そもそも神祇釈教が各地に浸透した順番。これが現代のわたしたちにはある意味で、とても見え辛くなっているという現実です。

 仏教(釈教)の浸透は平安期にならなければ叶わず、天つ神・国つ神崇拝(神祇)は記紀の成立と、その喧伝によって衆知され、浸透していったものです。そう、記紀がどれほどこの国の原初が天つ神である、としていてもそれはそれ。
 ...少々不穏当なことを敢えて書くならば、どれほど進化論の科学的裏打ちがなされようとも、ヤーウェと、ヤーウェが生み出したアダムとイヴこそが人類の祖である、としている聖書と同様ですし、これは何も記紀や聖書に限らず、全ての神話と経典が負っている矛盾、あるいはヒロイズムといった処でしょうか。

 例えば飫富神社のように、大本は自然信仰や先祖崇拝の神籬だったものが後に、神祇を祀る神社あるいは神宮になる...。そしてその神祇(天つ神信仰)こそが、天皇氏崇拝そのもの、ということです。
 中国生まれの儒教は、封建制を維持するための御用学問として成立しました。礼節を重んじる、という価値観そのものが悪いとは決して思いませんが、それでもそういう美醜の境界を設けることで大政の翼賛としていた事実は変わりません。神祇もそれと同じです。しかも巧みに先祖崇拝を取り込んでいます。

 いやはや、かつてキリスト教を禁じていたローマに、どうキリスト教が伝播していったのか。その過程とほぼ同様、です。土着のものを取り込んで、同一視させることで周囲からの抵抗を緩和させて、と。
 ...そういう過程、そういう歴史のまるで一里塚のようにして、悲劇的神話と併せて各地に創建されていったものが、きっと吾妻神社なのでしょう。

 JR内房線の大貫駅より内陸に2kmほどの場所に、富津の吾妻神社はありました。一面の田園地帯の中、畦道を舗装しただけのような細い、細い道を行ったり来たりして探すこと15分ほど。こちらも丘陵地の中腹あたりに建っているのですが、意外だったのはこのお社の地元での存在です。
 途中、道を訪ねて通りすがりの方に話しかけると、必ずこう返って来たんですね。
「おあずま様なら...」
 おあずま様。それだけ、この吾妻神社が地元の人々に愛されているということでしょうね。...であるならば、「君去らず〜」の歌同様、余所者があれこれ言うのは不謹慎でしょう。


 実際、畿内と比較してしまうと東国の神社さんは何処も、地元の人々の中に息づいている印象が希薄です。今回の紀行では、姉埼神社などは古社にして大社。なのに地元の人は素気なく感じるほどです。荒れ果てて、半ば廃社のような場所もかなり多かったですし、多いのでしょう。でも、ここはどうやら違うらしく...。
「もう、それだけでいいじゃない」
 それだけが、胸の底の方でほのかに暖かく感じていました。

 おあずま様。吾妻神社をそう呼んで親しんでいるだけあって、この地にはかなり大掛かりな神事も残っているようですね。馬だし神事とオブリ神事というものらしく、馬だし神事は弟橘伝説に関連しています。
 曰く、かつて富津の岩瀬の浜に弟橘の遺品が流れ着き、それを馬の背に乗せておあずま様に奉納した、という故事に倣って、浜で禊をした神馬と馬子が、海中で拾った石を二枚貝に仕舞い持ち、そこから山の中腹にある神社まで登る、とのこと。
 氏子の7地区からそれぞれ神馬と馬子が出されるらしく、最後に登る神社の石段は、人馬ともに一気に駆け上がるのだとか。...もちろん、神馬に馬子は乗っているのではなく、鬣と鞍にしがみ付いて、まさしく一緒に走るもののようですね。
 そんな馬だし神事の次に、2本の竹に真鯛などの出世魚を7組吊るして、お神輿のように山へ担ぎ上げるオブリ神事があって、最後にお神輿を担いで。
 そういう順番で行われるおあずま様の例大祭。開催は毎年9月ということで、もちろんわたしは観たことがありませんけれども。


 細かく降りしきる雨と、それを受けるまだ淡い緑いち面の田圃。景色は煙るようにしか見えていなくて、緑の迷路の中を独りでいるかのような錯覚と、かすかな恐怖と、大きな懐かしさと。周囲を見渡すとちょうど内陸方面の丘陵地帯が東から北へ続いていて、南側は鋸山などになるのでしょうか。やはり山が見えていて。そして西側はおあずま様が鎮座している山で。
 大和盆地も、甲府盆地も、そして盆地などという規模ではなくとも、やはり周囲を丘陵に囲まれたこのおあずま様のお膝元も。大倭豊秋津島を歩いていれば、必ず出会う“畳なづく青垣 山隠れる”地は、それ故に水田も早くから拓け、水稲栽培にも力が入れられていた、という共通項があります。

 そして、そういう土地ほど、豊作の予祝と収穫の感謝という形で、何らかの信仰も根付き易いものです。おあずま様の神事は、たまたま弟橘伝説を模してはいますけれども、祭の本質は農業の豊作と、漁業の豊漁祈願でしょう。
 自身の本業であることもさることながら、それが人間という生き物が生きてきた証としての食は、やはり神話よりも、伝説よりも、ましてやイデオロギーよりも、
「先に在ったもの」
 だと信じています。生命を維持することは、同時に種の保存をすることでもあって、そこには生殖というもう1つの生存もあって。
 1番創めに在ったのは肉体だけ。であるならば、自らを楽器としている歌謡とは何なのだろうか、と。同様に括れるのは恐らくは舞踊、となるでしょうか。

 春先から、ふと抱いてしまった疑問、いや。謎と言うべきなのかも知れませんが、頭の隅に1つこびりついて離れない問いがあります。
「何故、記紀や風土記は歌謡を収録しなければならなかったのか」
 と。一方の「万葉集」はあくまでも歌集です。しかも巻1と2は勅撰の可能性も高いわけで、こちらも同様に謎が1つ。
「万葉集の巻1、あるいは巻2までも含んだとして。一体何故、万葉集は編まれたのか」
 です。

 先ずは記紀と風土記ですが、ご存知のように日本書紀は史書です。風土記は国勢調査と地方自治体白書と各地の郷土史書などを兼ねたような存在です。言ってしまえば、そういうお堅い公的資料に、歌謡が収録されていること事態が、現代の感覚からすれば違和感を覚えはしないでしょうか。
 唯一、古事記は叙事詩としての側面から見れば、何とか違和感が希薄でいられはします。いられはしますが、古事記はそもそも、帝紀(天皇家系譜の伝承を記した、とされる書物)と旧辞(各氏族伝来の歴史書、とされている書物)を統合・改訂したものです。つまり、先に帝紀や旧辞に歌謡が含まれていて、その統合に際して不要とは見なされなかったからこそ、古事記に歌謡が残った、と言えるわけなんですね。あるいは、統合・改訂に際し、必要であるために敢えて挿入されたか、です。

| 是に天皇詔りたまはく、
|「朕聞く、諸家の實たる帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当た
|りて其の失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち那家の経
|緯、王化の鴻基なり。故、惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後
|葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。
                             「古事記 上巻 并せて序」


 古事記に関しては勅撰ではないとする見方もいまだ根強くありますが、それでもこう明記されている以上は、やはり国家としての公式文書の側面が色濃く、そう考えるならば歌謡が収められていることへの違和感もまた然り、となるでしょう。
 まして「万葉集」に至ってはもっと違和感があります。一般的に言われている「万葉集」の編纂過程は

 1) 冒頭〜巻1前半   持統天皇・柿本人麻呂編纂
 2) 巻1前半〜巻2    元明天皇・太安万侶編纂
 3) 巻3〜巻16の一部  元正天皇・大伴坂上郎女・橘諸兄・大伴家持など、編纂
 4) 巻16の大半〜巻20 大伴家持編纂

 と推測されていまして、わたし自身もこの説を大筋では採っています。つまり、何が言いたいのか、と言えば
「当時の王朝にとって、歌謡とは保存しなければならなかった存在であった」
 ということですし、その証左であるのが記紀万葉風土記といった上代文献に収録されている上代歌謡たち。

 例えば、現代の無形文化財のように、当時の王朝が歌謡を保存すべき文化として捉えていた、とするのはかなり無理筋だ、と個人的には思います。仮にもし、そうであったとしたならば、歌謡以外の文化についても文献が残っているはずでしょうから。
 要するに、皇統の系譜や諸家の歴史や、各地の実情や歴史などと、ほぼ同じくらいに重要なもの、と歌謡が見なされていた、ということになりますし、ではどう重要だったのか。

 ...それはやはり、政=祀、ということになってしまうのでしょうね、きっと。つまり政教一致の時代に於ける神事としての存在。それが歌謡であり舞であり、と。古事記の序文には、こんな件も記述されています。

| 飛鳥の清原の大宮に大八州を御しめしし天皇の御世に曁りて、潜龍元を体し、存(*)雷
|期に応ず。夢の歌を聞きて業を纂がむことを相へ、夜の水に投りて基を承けむことを知り
|たまひき。
                             「古事記 上巻 并せて序」
                     * 正しくはサンズイに「存」という表記です。


 要するに天武が寝ていたら夢の中で歌を聞いた、と。そしてその歌を聞いて皇位を継承するべきかを占い、壬申の乱の折には横河で、真夜中に湧く黒雲を見て皇位を自ら継ぐべきだ、と悟った、というようなことなんですが。
 関連する記述は黒雲に関してが以下。

|横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。
|則ち燭を挙げておやら式を秉りて、占ひて曰はく、
|「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕ついに天下を得むか」
| とのたまふ。
                     「日本書紀 巻28 天武元年(672年)6月24日」
          ※年号については日本書紀の記述に習い、天智年間は10年まで、弘文
           元年はなく、天武元年が壬申の乱の年、という算出をしています。


 一方の歌がこちらです。

| 十二月の癸亥の朔乙丑に、天皇、近江宮に崩りましぬ。癸酉に、新宮に殯す。時に童謡し
|て曰く

| み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍も良き え苦しゑ 水葱の下 吾は苦しゑ

| 臣の子の 八重の紐解く 一重だに いまだ解かねは 御子の紐解く

| 赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし良けむ
                   「日本書紀 巻27 天智10年(671年)12月3〜11日」


 「み吉野の鮎は、清流の中洲辺りに棲むのもいいけれど、今の私は本当に苦しいね、水草たちの根元の浅い水は、本当に苦しいね」
「近江方の人は八重の着物の紐を解く。なのに躊躇ってまだ一重も紐解けないうちに、吉野の皇子が紐を解く」
「赤毛の馬が行き悩む真葛の原のように、遠慮ばかりで中々事が運ばない。一体、どんな言伝をしたのですか。直接伝えればいいでしょう」

 お判りでしょうか。要するに天智他界に際し、皇位を継承する大友皇子と、その大友に疎まれて吉野に逃げた大海皇子、すなわち後の天武天皇。そんな世情にこんな戯れ歌が流行し、天武自身も夢でこの歌を聞いてしまった、と。
 そして、これこそはご神託であろう、として大海皇子は挙兵をした、ということ。...つまり、日本古代史最大の戦乱であった壬申の乱勃発の直接的引金は歌であった、と。

 いやはや、流石にこの手の記述は後付け以外の何物でもないのでしょうが、逆を言えば
「歌という存在が、後付けとして成立できていた」
 という事実です。...これが前述の歌という神事=政、という図式の象徴的な例示ではないか、と思います。

 この国に限らず、世界各地の古代史には、歌と舞の奉納に近い記述は枚挙に暇を得ません。人麻呂の出自である柿本氏が、天宇受売を祖とする猿女氏の系譜であることは、「あきづしまやまとゆ・弐」でも書きましたが、その猿女氏は神楽を始めとする神事に、専ら従事していた氏族です。
 これらを踏まえて、
「そもそも歌とは何ぞや」
 と考えしまうんですね。歌って何、歌謡って何、と。

 神事、すなわち信仰。そして信仰の源は食べられることへの感謝と祈りであり、子孫繁栄への祈りであって。そんな信仰に欠かせないものが歌と舞。さらに言うならば政自体も、そもそもが万民の飢えることなくあることと、子孫繁栄の為に発生したものであることは、言わずもがなでしょう。
 ...何もわざわざ、改めてこうも饒舌に書く必要などない、極めてプリミティブな人類の在り様。そして、在り様のさらに上流には、かつて獣であったが故に、言葉を持たない以前から、鳴いていたであろう人類の祖があって。
 そう、たったそれだけのことです。


 幾分、行ったり来たりして迷いながら、いち面のさみどりを抜け出して坂を登ります。大きなカーブの曲がりしなに意外にも立派な鳥居と注連縄。おあずま様です。雨脚が少し強くなって来ていましたが、何だかもう頭の中も、胸の中も、熱い何かが渦巻いていて、そんなことは気にもせずに石段を駆け上がりました。
 ...いや、雨が嫌だったからではなくて、単純に走り出したかったんです。走って、駆けて、できることなら叫び出したい、とさえ思っていたんです。







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