「...広い」
 思わず言葉が洩れました。国分尼寺は、中門と金堂へと続く回廊だけが復元されていて、尼坊などは復元されていません。展示館の建っている場所が、国分尼寺の広い広い敷地の西奥の部分に当り、展示館から進むと金堂、回廊、中門と、本来とは逆行する形になります。
 ...わたしは、駐車場の関係から先に展示館へ行ってしまいましたけれど、順番が逆でしたね。

 玉砂利のうえを進み、石段をあがります。金堂が建っていた場所から左右に広がる回廊。そこをゆっくり1周してみました。わたし以外には誰もいない、いにしえの回廊を歩いていて思い出したのは4年前の夏です。
 「あきづしまやまとゆ」に綴っている、薬師寺と飛鳥資料館に提示されていた復元・山田寺東回廊。あのどちらもをきっと歩いたであろう、讃良や阿閉、あるいは高市。1300年もの時代を超えて、万葉歌人たちがまるで隣にいてくれるような、錯覚に襲われていたあの日々。


 この国分尼寺の回廊もまた、かつて多くの人々が歩いたのでしょう。といって、少なくとも大原今城は歩いていないでしょうけれども。如何にせんここは尼寺。そして、恐らくは彼が上総に滞在していた頃は、まだこの寺は完成していなかったことでしょう。
 ...どうやら、この回廊を歩いたかも知れない人物の中に、万葉歌人はいなさそうです。けれども前述の通り、この国の人々は生活の中で当たり前のように謡っていましたから、ここに詰めていた尼僧たちも、きっと謡っていたのではないか、と。
 そんな風に思っていました。

 ただ、先の訪問地であった郡本から、わずかしか離れていない場所に、これほどまでの大伽藍を建立しようという国家事業が進行していたにも関わらず、その一方では千國のように、粗末な住いに暮らしていた者もいた...。
 今城や千國たちが、そう時を違えずして上総を発った天平勝宝7年(755年)。時の天皇は聖武の後を継いだ孝謙女帝でしたが、この翌年には橘諸兄が辞職。太上天皇だった聖武も他界してしまいます。奈良では、このほんの3年前に大仏が開眼し、国分寺や国分尼寺の各地への建立も含めて、国状を鎮めるために行った数々の国家事業は、されど崩壊し始めた天平の世を、支えることなどできませんでした。
 何せ孝謙期です。歴史に興味ある方ならばご存知でしょう。孝謙期がどれほど荒み、無軌道だったのかを。藤原仲麻呂の専横と、各地で繰り返し起こる謀反、疫病の流行と蔓延、そして飢饉。

 政治というものは物悲しく、やるせない側面があるのだと思います。誰がどうだった、というのではなくただ、まつりごととはやるせないものなのだ、と。
 ...雨が、静かに降っていました。

 息の緒の軽まらざれど刈萱の束ぬるかぎり 天つ日のもと  遼川るか
 (於:上総国分尼寺跡)


 「刈萱の」は束に懸かる枕詞。

        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 一方の国分寺跡は、国分尼寺跡から見て、市原市役所の先。ごく近所になります。こちらには復元されているものがなく、けれども敷地内には現在も医王山清浄国分寺が建っていて、江戸期に再建された薬師堂もあるようですね。...いや、どうも気持ちが昂っていたのか、それとも逆に沈んでいたのかはよく覚えていないのですが、国分寺跡地でわたしは、あまり周囲を見て周りもせずに、ただぼんやりと。...ただ、立っていただけだったんです。


 国分尼寺跡のように、現代の人の手がとてもとても入っているな、という印象が国分寺跡には希薄です。...まあ、実際はそんなことなんてないんですけれどね。ないんですけれど、判りやすく人の手が入ってはいない、ということで、すこんと開けた野原に、塔跡の礎石が残っているのみ。個人的には、やはり復元された史跡よりもほっとできてしまいます。
 資料に拠ると上総の国分寺は、各地のそれの中でもかなり大きかったようですね。下野や武蔵国のものに次いで3番目だったのだとか。

 国分寺建立の詔が発布されたのは天平13年(741年)3月24日。

|乙巳、詔して曰はく、
|「朕、薄徳を以て忝くも重き任を承けたまはる。政化弘まらず、寤寐に多く慚づ。古の
|明主は、皆光業を能くしき。国泰く人楽しび、災除り福至りき。何なる政化を修めて
|か、能くこのこの道に臻らむ。頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集りて、
|唯労きて己を罪へり。是を以て、広く蒼生の為に遍く景福を求めむ。故に、前年に使
|を馳せて、天下の神宮を増し飾りき。去歳は普く天下をして釈迦牟尼仏尊像の高さ
|一丈六尺なる各一鋪を造らしめ、并せて大般若経各一部を写さしめたり。今春より
|已來、秋稼に至るまで、風雨順序ひ、五穀豊かに穰らむ。此れ乃ち、誠を徴して願を啓
|くこと、霊(*)答ふるが如し、載ち惶り載ち懼ぢて、自ら寧きこと無し。経を案ふるに
|云はく、『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し、恭敬供養し、流通せむとき
|には、我ら四王、常に来りて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめむ。憂愁・疾疫を
|も亦除差せしめむ。所願心に遂げて、恒に生歓喜を生ぜしめむ』といへり。天下の諸
|国をして各七重塔一区を敬ひ造らしめ、并せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部
|を写さしむべし。朕また別に擬りて、金字の金光明最勝王経を写し、搭毎に各一部を
|置かしめむ。冀はくは、聖法の盛、天地とと与に永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒
|に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必ず好き処を択ひて、実に久
|かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆を労はして帰集する
|ことを欲はず。国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清を尽すべし。近く諸天に感
|け、臨護を庶幾ふ。遐邇に布れ告げて、朕が意を知らしめよ。また、毎国の僧寺に封
|五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺は、必が廿僧有らしめよ。その寺の
|名は金光明四天王護国の寺とせよ。尼寺は一十尼。その名は法華滅罪の寺とせよ。両
|寺は相去りて、教戒を受くべし。若し闕くること有らば、即ち補ひ満つべし。その僧
|尼、毎月の八日に必ず最勝王経を転読すべし。月の半に至る毎に戒羯磨を誦せよ。毎
|月の六齋日には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。国司等、恒に検校を加ふべし」
| とのたまふ。
              「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平13年(741年)3月24日」

                  
 * 霊「貝兄」答ふるが〜、という表記です。

 ですが、各地の国分寺が完成したのは、実にその20年後だったといいます。日本全土を仏法によって鎮護するという、聖武の崇高な理想は、けれどもその崇高さ故に、民草を救うことができませんでした。むしろ、結果的には苦渋を強いただけだったのかも知れません。
 ただ、この失敗から人々は国ではなく、個人を救済するべき教えとしての仏教に、次第に心を寄せていった、とも言えます。同時期に民衆から支持を得ていた行基の存在が、この交差する歴史の裏打ちとなるでしょう。

 万葉期に限らず、この21世紀の現代ですら、わたしたち人間は、直近のものの欠点を修正することで、生きています。パソコンのOSも、車のニュー・モデルも、政策も、果てはお掃除や洗濯、料理に到るまで、何もかもです。この機序を突き詰めてしまえば、進化と退化を繰り返し続ける、遺伝子そのものでもあるわけで、だからこそ歴史には答えがなく...。
 ですが同時に、その時代、その時代を生きている者たちは、されど自らが歴史の主人公である、という自覚など殆どしていないものです。

 個人的には、聖武天皇に思い入れはほぼ皆無で、特に弁護したい衝動もありません。また、彼が行った数々の国家事業を、失策と言ってしまうのはとても簡単なことです。でも、だからといって聖武が真剣ではなかったのか、と言ったらきっとそんなことはないでしょう。ただ、未知だっただけです。
 世界は、人間が変わるスピードよりも、ずっと速く変わるものなのだと思います。後から気づくのはいつだって人間の方です。だからやるせない、と...。

 国府で務めに励んでいた今城と、かつては皇族だった中央官人を送り出す豪族の女たち。歌を読む限り、大和朝廷への従属はもはや当たり前である、といった風情が感じられます。それもそのはず。日本書紀の記述のままならば倭建の上総上陸からすでに650年弱。考古学的見地でも、畿内から派遣された征伐隊の上総上陸からは、最短でも約150年。時間は経過しています。
 件の歌からは、確かに律令国家としての輪郭がきちんと見えていて、でもその律令国家すらも、もうしばらくすれば、完全に崩壊してしまったことを、現代人のわたしはちゃんと知っています。

 時々、何を確かめたくて自分は古代史を巡っているのだろう、と思ってしまいます。もちろん、わたしの場合は和歌が大前提にあるのですが、明確に思うのはただ歌だけではないだろう、と。歌だけならば、もっと違う接し方があります。なのに何故、一体何を、わたしは確かめたいのだろうか、と。
 ...過去の可能性の剥離と、だからこその一期一会。そしてその自覚。恐らくは、そういうことなのだと思います、きっと。


 奈良へ帰った後の今城は、出世しながら上野守、駿河守を勤め、その後の消息は判っていません。恐らくは駿河守在任中に他界したのではないか、と考えられていますね。
 「万葉集」に採られている歌は、自らが詠んだものが9首、別人の作を伝誦したものが8首。個人的にはかなり素直に歌を詠んだ方だと思っていて、万葉末期の歌人の中では比較的好きな方だと思います。

|初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
                          作者未詳「万葉集 巻20-4475」


 一方、こちらは彼の作ではなく、防人から無事に国へ戻れた者が謡ったものを、今城が伝えた、とされています。

|題詞:昔年相替りし防人の歌一首
|闇の夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
                          作者未詳「万葉集 巻20-4436」


 ですが左注に

|上総國の大掾正六位上大原真人今城傳誦して爾云へり。年月未だ詳らかならず
                              「万葉集 巻20-4436」


 こうあることから、この歌を詠んだ防人から帰還した人物とは上総の青年だった、としてほぼ間違いないだろう、と言えそうですね。
「まるで闇夜を、行く先も知らずに行くように、どうなるのかも判らない防人へ出発するわたしに、次はいつ逢えますかと尋ねた妻よ」

 “闇の夜の行く先知らず行く我れ”。これは防人へ出向いた者たちだけではなく、国家鎮撫を願った聖武も、今城と親しかった大伴家持も、今城自身も、今城を見送った郡司の妻たちも、そして現代を生きているわたしたちすらも。誰もが等しく、変わらないものなのだ、と思います。

 夜にあればあしたも知らに
 玉鉾の道はろはろに
 けだしくもあらばあるらむ
 なきならばあらざるものゝ
 名告りそも号くればまた風の吹き
 いかへるもなく
 いたどるもえなさゞるゆゑ
 影面と
 背面たがへず
 息のまにまに
 
 海境をけだしくも知らざればともしきことならむ 
 移ふものゝ崩えばなるらむ              遼川るか
 (於:上総国分寺跡)


        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 ずっと、万葉故地を巡っています。そして、その目指す先は大抵が歌碑であったり、お社であったり、史跡であったり。中には国分尼寺のような、原寸での復元物もあれば、遺跡もあります。改めて考えれば、ある意味で莫迦々々しいことなのかも知れないな、とよく思うんですね。
 湿気が多く、地震も多いこの国は、同時に木造建築を専らにしていた国です。天平や白鳳といった万葉期ですら1300年、それ以前ならばさらに時間が経過してしまっている現代に於いて、当時の建造物がそのまま残っていること自体が不自然なわけで。例えば、世界最古の木造建築物である法隆寺はもとより、薬師寺の東塔などは1300年もの間、その時代、時代の人々が守ってきたからこそ、のもの。

 ましてやただ歌に詠まれた、あるいは歴史の舞台となった、というだけの土地。それこそが万葉故地であって、訪ねるポイントとして据えるランドマークのような存在は、そもそも最初からない、とも言えます。
 倭建と弟橘のきみさらずタワーに、かすかな拒否反応を起こしたわたしですが、では昭和や下手をしたら平成に建てられた歌碑はどうなんだ、と自らに問うたならば、やはり歌碑もまた「判りやすさ」のひとつの形に過ぎないわけで。...要するに、判りやすいことが哀しいのではなく、判りやすさの種類の違いなのかも知れません。あるいは何故、ランドマークが必要なのか。
 ...突き詰めてしまえば、ここに辿り着いてしまうんですね、結局は。

 何も、ランドマークを訪ねるのが目的なのではなく、ランドマークによってある程度の固着がなされているであろう土地を全身で感じるのが、わたしの目的です。もちろん、ランドマーク自体の正当性と信憑性は、度外視していることも自覚しています。ただね...。
 納得は、何によって納得できるのかという個々の境界のうえに成立するもの。どう納得できたか、ではなくて納得することこそが扉であるならば、開けるか、開けないか。それとも扉まで出向かないのか。
 そんな何とも我田引水極まりないガイドラインに基づいて、必死に探した歌碑が1つ。

|庭中の阿須波の神に小柴さし我れは斎はむ帰り来までに
                      帳丁若麻續部諸人「万葉集 巻20-4350」


 「庭に祀っている阿須波神の依り代である小柴で潔斎し、帰って来られるまでの旅の無事を祈ろう/帳丁、若麻續部・諸人」

 千國の歌で感じた歪みとはまた別の、当時の歪みを感じてしまったのは、たまたま国分尼寺と国分寺跡を訪ねた直後に、この歌碑を探していたからなのかも知れません。わたしが感じてしまった歪み、それは阿須波神です。
 阿須波神。所謂、坐摩神の1柱なんですが、では坐摩神とは何ぞやといいますと、生井神・福井神・綱長井神・阿須波神・波比祇神という5柱の総称で、これら5柱はすべて屋敷に関連する神様です。前3者が井戸の神様、後2者が竈の神様、と。
 余談になりますが、大阪には坐摩神社というお社があって、正式には「ざまじんじゃ」ではなく「いかすりじんじゃ」と読んだと思います。加えて延喜式にある宮中神36座にも坐摩神は数えられていますね。

 ただ、阿須波神には別の意味合いもあって、それは足の神様というもの。恐らくはその拡大解釈によるのでしょうが、旅の神様という側面も持っているようですね。
 そもそも、この阿須波神は古事記に登場しています。

|又天知迦流美豆比売に娶ひて生みませる子、奥津日子神、次に奥津比売命、亦の名は大戸
|比売神。此は諸人の以ち拝く竈の神なり。次に大山昨(*)神、亦の名は山末之大主神。此の
|神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日
|神、次に阿須波神、次に波比岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に
|大土神、亦の名は土之御祖神。九柱。
                   「古事記 上巻 大国主神の事績 大年神の系譜」
                       (*) 正しくは「口乍」という漢字です。


 これに拠れば、阿須波神は須佐之男命の孫に当たります。父親は須佐之男と神大市比売の間に生まれた大年神。蛇足ながら、この大年神の同母弟が全国の稲荷神社の祭神・宇迦之御魂神です。
 大年神は古代日本に於いて、とても重要視されていた神様で、大年の“年”とはまさしく年。つまりは稲の稔りをもって1年を終える、という流れの象徴とも言える、穀物の神様なんですね。古事記には、上記引用部を含めてたくさんの神様が大年神の子どもとして、生まれたことを記載しています。...本来、古事記が謳っている神代の国つ神の直流・須佐之男→大国主→事代主の系譜ではない、傍流であるにも関わらず、わざわざ系譜を解説していることからしても、その重要性は推して知ることができるでしょう。
 そして、現代のわたしたちですら、お正月にはお飾りをしますけれど、あれらもまた新年に各家々へやってくる大年神を迎えるがための儀式の名残です。

 そんな大年神の子である阿須波神。屋敷の神であり、旅の神でもある存在に、防人へと向かう諸人は祈ります。
「どうか無事に帰ってこられるように、お守りください」
 庭先の土に小柴の枝を挿して阿須波神の依り代とする。...あるいは、諸人は自身が残してゆく家族たちの加護を祈ったのかもしれませんし、逆に家族が諸人の無事を祈った、という歌なのかもしれませんし。
 いずれにせよ、諸人が縋る思いで祈ったのは阿須波神でした。御仏ではなく、です。

 史上初の中央集権国家となった天平の世。ですが、そこはやはり現代のように通信機器やメディアもなく、中央と地方のどうにも埋まらない格差はあってしかるべきことで、徒歩圏内で大伽藍造営事業が2つも行われていても、日々を暮らす者からしてみれば、だからそれが何だというのか、と...。ギャップです。
 ギャップの内容は何であれ、1300年経った今でも、わたしたちは変わらずに様々なギャップと直面しながら生きています。そしてギャップの原因は得てして無知、あるいは未知によります。だからなのでしょうか。出発前にこの歌を読み直した時、とにかく
「知ろうとし続けなくは」
 と漫然と思ってしまいました。

 何だか気圧されてしまったのか、少しぐったりしてしまった国分寺跡から、阿須波神社へ向かいます。何でも境内には「庭中の〜」の歌碑もあるらしく、かなり愉しみにしていたのですが、いざ神社の境内を探せど、歌碑がありません。


 境内を何度も、隈なく探してもやはり空振りで、今回の古歌紀行では、最初のスクランブルにここで陥りました。...いや、知らない土地をあちこち廻っていると、不測の事態は頻繁に起こりますので。

 とにかく、手持ちの資料・地図の類を車の中に広げて、端から目を通し直します。そして悟ったのは、今いるお社は阿須波神社ではなく、阿波須神社だということ。わたしが訪ねたかった阿須波神社は、来た方角を戻った、菊間と郡本の真ん中近くにあるらしい、ということで、慌ててUターンです。
 後日談になりますが、この阿波須神社は、阿波=安房ということで当然、阿須波神とは全くの無関係。むしろ安房国に縁ある場所のようでした。
 市原市役所の前を、来た時とは逆に進み、郡本の交差点も過ぎます。...この日の予定はまだまだ詰まっていて、それになのに時刻はもう11時になろうか、としていました。

 大凡の見当をつけた界隈に戻って、道路を何度もいったり来たり。そうやって探しても神社らしきものは見つけられず、スクランブルの度合いは酷くなる一方です。また、そんな状態では注意力も散漫になるので、余計に見つからないという悪循環。やっと見つけた半ば荒れ果てて名前のないお社にも、やはり歌碑がありません。


 数少ない通りがかりの方に訊いても、その荒れ果てたお社を指して
「阿須波神社だと思いますよ」
 という返事ばかり。それでは、問題の歌碑は一体全体、何処へいってしまったというのか。...いや、歌碑そのものは、例えば高名な方の筆致によるものだとか、何かエピソードあるだとか、そういう意味での価値は特別あるものではないです。ないですが、とにかくこうも見つからないと、どうしても実際にこの目で、何が何でも歌碑を拝みたくなるわけで、仕方なしに道路沿いのガス工事会社さんへ。予想では、宅地地図をお仕事で使われていらっしゃるんじゃないか、と。

 日曜日のお昼前。突然の闖入者に、それでも丁寧に対応してくださった、ガス会社の方々のお陰で、どうやら通り1本向こうに神社があること、但し車では行けない場所であること、などは無事に判明。
 何度もお礼を繰り返すわたしに所長さんらしき方が訊きます。
「そんなにまでして行きたいその神社には、何があるんですか?」
「いや、特に見所があるというわけではなくて、ただ万葉歌碑が...」
「...こんどわたしたちも行ってみないとね、そんなにいい所ならば」
 所長さんの言葉に事務のお姉さんも頷いていて、流石に口を噤む以外なかったわたしです。間違いなく歌碑としても小さいものでしょうし、そもそも万葉歌碑なんて、興味がなければ観るだけで悦べるような代物であるはずもなく...。そのうえ、歌の実際の舞台か否かすらも定かではないのですから。

 大回りしてもう1本向こうの道へ出ると、片側は台地の崖が圧し掛かるように張り出していて、もう片側は何とも綺麗な碁盤の目状の田圃が一面に。菊間方面からずっと続いている広大な水田は、そのまま条里制遺跡でもあります。条里制、そう古代の田圃の遺跡ということです。
 また、わたし自身は実際に見ませんでしたが、すぐ近くに古道も残っているようですね。これらはまさしく1300年前から残っているもので、信憑性や正確性が定かではない歌碑よりもずっと、ランドマーク足りうるはずなんですが。...なのに、わたしはそれらを眺めることよりも、歌碑を探すことを優先していました。それも無意識に。

 恐らくはこのごく近所なのは間違いなく、でもまだ見つからない歌碑と阿須波神社。もう一度、通りすがりの方に訊くと、何と張り出している台地の上にあるとのことで、雨が降るなか、車を降りました。
 台地と言っても大した高さではないですから、登るのはわけもなく、ですが何処を登っていいのかが判らないような立地を、何となく恐々と。そして目の前にぽつんと現れた、ささやかな鳥居とお社。その隣にあったのは、歌碑です。







BEFORE   BACK   NEXT