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これには正直、きょとんとしてしまいましたね...。これまでの訪問では、例えば地元の人々によって、静かに守られていた史跡。歴史の中で何もなくなってしまった史跡。そして奈良の平城宮・朱雀門のように再現された史跡などが、多かったのものでした。 でも、まるで地元のシンボルのような形で、再現ではなく“創られた史跡”は流石にあまり経験がなく...。いや、厳密に言えば、各地の万葉歌碑などにしても創られたものです。もっと厳密に言うならばお社も、史跡をテーマとした奈良県内の公園なども、みんな確かに創られたものには違いないのですけれどもね。 ...判りやすさは時に哀しいものなのだ、と。愛情や思い入れの形は人それぞれなので、だから判りやすさは時にとても親切で、そして同時にとても乱暴で。たまたまこの、きみさらずタワーがわたしにとっては乱暴、というサイコロの出目になってしまっただけなのでしょう。 公園の駐車場へ車を停めます。かなり広い公園で、わたしが訪ねたいポイントにもっと近い、駐車場もありました。でも、敢えて1番入り口近くの低い位置の駐車場にして、あとは公園内をタワーの方へ向かって登ります。 太田山公園で訪ねたかったのは、前述のきみさらずタワーと、その傍らにあるという橘神社。山全体が公園になっている太田山は別称・恋の森というそうで、その由来がようやく上総へ上陸を果たした倭建が、この山頂で海を見下ろして弟橘を偲んだ、という故事に拠るのだとか。だからなのでしょうか。橘神社は縁結びの神様でもあるようです。 調べた範囲では太田山は標高がわずか40m。日本の低山の1つに挙げられています。ですから登ることは、いくら体力に自信が皆無のわたしでも殆ど苦にはならず、一気に展望台のある山頂へ到着。先ずは橘神社に参拝をしよう、とは思いましたし実際に参拝もしたのですが、やはり違和感は拭えませんでした。 そして、ずっと見えていたきみさらずタワー。これにもやはり登ってみよう、と。...これがどうも登りづらいというか、なかなか怖い階段なんですね。高所恐怖症の気はこれっぽちもないはずなんですが、足元の狭さに怖いなぁ、と。恐らく、タワーの階段が登りづらいから、というよりはわたしがタワーの最上部に設置されている像や、周囲の景色をキョロキョロ見ながら登っていたから、なのでしょうね、きっと。 階段で登れる1番高い場所から、さらに高い位置の像はデジカメのズームを使っても詳細には見えず、これがわたしには唯一の救いにも思えました。...あまり克明な像がすぐ隣に建っていたら、それはそれで何とも言えないでしょうしね。 きみさらずタワーから眺める景色は、まさしく360℃の展望。でも、わたしが1番見たかったのは西側です。そう、東京湾が今でも見えるだろうか、と。...流石に、こればっかりはやはり無理でした。 さかれるは海処にあらじ ふりぬればひとのあはれのさからずもさぶ 遼川るか (於:きみさらずタワー最上部) この太田山公園内には県立上総博物館や、近くにある金鈴塚古墳からの出土品を展示している金鈴塚遺物保存館などもあって、できればもっとじっくり観たかったんですけれどね。でも何せ時刻が時刻です。すでに両館ともに閉まった後で、これらは泣く泣くパス。 ただ、ここでもやはり走水神社同様の思いは込み上げていました。 「どうして2年前に気づけなかったんだろう...」 と。金鈴塚古墳という文字を見かけるたびにそれはどんどん強くなってゆきます。 金鈴塚古墳。わたし自身はまだ訪ねたことがないので、調べられる範囲のことしか知りませんが、単純にデータだけを列挙するならば6世紀末くらいの前方後円墳らしく、全長95m。恐らくは馬来田の国造の墳墓ではないか、とされています。出土品に純金の鈴が5つあったことは有名で、その他にも副葬品はなかなか豪華だったようですね。 6世紀末、つまりは500年代末ということで、推古朝の時期くらいでしょうか。蘇我馬子や聖徳太子こと、厩戸皇子が活躍した時代となります。当然、倭建の東征よりもずっと後の時代です。 そして、迎えた7世紀。その半ばにして起きたのが天智2年(663年)の白村江の歴史的大敗と、それによって始まった翌天智3年(664年)のこちらの制度。 |是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。 「日本書紀 巻27 天智3年(664年)」 はい、徴兵制度・防人の始まりです。 いまさら明記するまでもなく、現在わたしたちが基準としているこの国の歴史は、畿内中心にして興ったものです。歴史上、畿内あるいは関西より東の地に、行政の中心が置かれたのは、鎌倉時代の鎌倉幕府と、江戸幕府以降。ですが、当然ですけれど関西以外にも人々は暮らし、日々を営んでいました。 現代のように交通や通信機器などは、全く発達していなかった時代。畿内中心史観から見れば、地方あるいは辺境の地であった東国は、けれどもそこで暮らす者たちからすれば、そここそが中心地。蝦夷などを蛮族とするのは畿内中心史観であって、彼らは彼ら自身の歴史に於ける主人公たちです。 ただ、国という概念が定着するほど、畿内の人々の思いは統一国家、という概念に集約されてゆきます。そして、彼らから見れば蛮族、つまりは「まつろはぬもの」たちを従える為の方策を採る...。それぞれの土地の在り様に合わせた硬軟様々な方策は、時には血を流し、時には智の提供をもってなされたのでしょう。 国造というのは、この統一国家構造に於ける、地方統治の1つの形でした。要するに地方の国を司っていたのが国造で、元々その土地を支配していた豪族の領土が、そのまま小国として考えられていたようです。つまり、地方の豪族(畿内から見れば蛮族)が大和王朝に服従した時点で、国造として認められていたということで、実質は名前ばかりの地方統治だったのかも知れません。帰順はすれども、ほぼ治外法権とでもいいますか...。 ですが、これが大きく変わり、現代の地方統治の概念に近い形に移行するのが、大化の改新以降。大化の改新の詔によって国造などはすべて廃止となり、代わって設けられたのが律令国としての郡司です。...そして国造たちが治めていた土地は、統合・整理、あるいは分割されていった、ということですね。 | 二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰はく、 |「其の一に曰はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・処ところの屯倉、及び、別には |臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民・処処の田荘を罷めよ」 「日本書紀 巻25 大化2年(646年)1月1日」 今回、わたしが訪ね歩いた内房の地域には、郡司が置かれる以前の国造たちの領土として4国が存在していたようです。菊麻(現・市原市北部界隈)、上海上(現・市原市南部〜袖ヶ浦市界隈)、馬来田(現・木更津〜君津市界隈)、須恵(現・君津市〜富津市界隈)、と。このうち金鈴塚古墳に葬られたのが馬来田の国造ですから、恐らくは歴史的に最後、とは言わないまでも国造廃止から遡って数人目くらいに該当する国造だったのでしょう。 大化の改新の詔以前の制度でも、大和王朝に忠誠度が高い国の長は国造ではなく、県令となりましたから、ここ上総の地は、それほどは王朝へ忠誠を誓っていたのではなかったのだろうと思います。恐らくは、まだまだ畿内から遠く離れた地で、凡そ独立国にも近い状態だったのではないか、と。でも、それが後に一変する...。 それだけではないでしょう。そもそも、この地に国造たちがいたということは、即ち大和王朝に服従をした歴史があったからで、ではいつ。いつ、その服従がなされたのでしょうか。 ...もうお判りだと思います。そうです。恐らくは倭建の東征として、記紀に語り継がれている時代。これこそがまだまだ畿内のいち豪族でしかなかった大和王朝が、その覇を各地に拡大していった歴史の寓話化に、ほぼ違いありません。 倭建の東征と、国造と、そして防人。ここに1本に結ばれてゆく歴史の糸は、けれどもそれぞれのどの立場から俯瞰するかによって、眼前に広がる視界もまた、全くの別物になろうことは、疑うまでもないでしょう。 最初はただ、走水海を訪ねたかっただけでした。子どもの頃に何度も寝物語に聞いた弟橘も、倭建も、わたしにとってはまるで幼馴染みたいな存在で、だから行ってみたい、と...。でも走水神社であの歌碑を見た時に、わたしの中で繋がってしまった歴史の糸が、ただその幼馴染たち側からだけ、この東国各地を見てはいけないよ、と囁きかけていました。 太田山を降りて、この日最後の訪問地・吾妻神社へ向かいます。ですが、同時に頭の中では「もう一度。もう一度、違う角度から上総に来なくちゃ...」 と繰り返し呟いているわたし自身がいました。 木更津市の吾妻神社。ここもご多分に漏れず倭建関連です。走水で入水した弟橘の遺品が東京湾沿岸の各地に流れ着いた、という伝説はかなりの数にのぼりますが、ここもその1つですね。 そもそも現在、自治体の名前になっているお隣の袖ヶ浦も、弟橘の袖が流れ着いたことに由来しているようですし、後日訪ねた富津市にある吾妻神社には櫛。一方の対岸の川崎界隈にも冠や衣。果ては東京湾を通り越して相模湾西部の神奈川県二宮町にも、やはり櫛が流れ着いたという伝説があって、いやはや何とも。これらはほんの1例にすぎない、と思います。 恐らくは、これらの伝説はすべて |故、七日の後、其の后の御櫛海辺に依りき。乃ち其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき。 「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」 この件に拠るものでしょう。ただ、それぞれの真偽についてはそもそも語ること自体が不毛な気もしますし、それよりもわたしが考えたかったのは、倭建一行が各地で歓迎されたのか否か、です。...というのも弟橘の遺品が流れ着いた、としている各地の伝承では一様に、一行だけではなく地元の人々が弟橘の行いに涙して祀った、となっているんですね。どうもこれらの件を信じるのならば、相模・上総の国々は、それほど一行に抵抗しなかったのかも知れません。...信じるのならば、ですが。 そしてそれを裏打ちするかのように、記紀には上総国での戦に纏わる記述がありません。また、相模国も前述のように「さねさし相武の〜」で謡われている小野の舞台が、現大和市界隈だったとしても、その平定後には特別、抵抗した痕跡は、記紀から読み取れません。...もしかすると、少なくとも上総の国造たちは、戦わずして王朝の配下に治まる道を、選択したのかもしれないですね。 吾妻神社は、地図で確認した範囲だと、どうもはっきりとした場所が判らず...。先ずはコンビニエンス・ストアで道を訊き、そこからは徒歩で探します。もう夕陽は暮れたのでしょう。最後の薄明の中、住宅地をてくてく。近所にお住まいの方々が、道へ出て立ち話をあちこちでしていらして、ほっとしてしまいました。...人が暮らしている活気と言うのでしょうか。もう都会はもちろん、自宅の近くでもあまり見なくなった光景です。ちょっとした水路と小さな橋。家々から洩れてくる夕飯の匂い。 「夏の夕暮れって、こういう感じだったんだよね...」 教わった通りに歩いてゆくと、比較的大きめの神社さんの裏手に出ました。ここが吾妻神社のようです。どうも何処かで道を間違えていたらしく、神社のすぐ手前まで車で来らるようになっていました。 吾妻神社は、神社の裏手がまるで何もない状態で、地面の上には切り倒された木々の枝が横たわっています。神社さんに植えられていた木なのだと思います。...何となく勝手な推測をするならば、ここに駐車場でもできるのかなぁ、と。路地を挟んだ向かい側に、真新しい自治会館のようなものが建っていましたから。 そんな裏手を突っ切って取り敢えずは神社さんの正面へ。この神社さんの創建年代も詳細は判っていないようですね。神社さんの立て札に拠れば、かつてこの界隈一帯を吾妻の森と呼んでいたそうなので、神社自体はその森に建てられたからこそ、この名前が付けられ、この名前だからこそ、袖の伝説が後付けされたのかも知れません。 |君去らづ袖しか浦に立つ波のその面影を見るぞ悲しき 木更津市吾妻神社境内歌碑 ※ 表記も歌碑にならっています。 伝承によれば、上総に上陸した倭建が弟橘を偲んで詠んだ、とされている歌です。君去らず、この音が地名・木更津の元となった、ともされていますね。 ですが、言ってしまえばこの歌は先ず、倭建のものではないでしょう。もちろん、失われた上総や相模国風土記に、もしかしたら収録されていたのかもしれませんから、断言はあえて避けます。避けますけれども先ず、有り得ないかな、と。恐らくは後世の人が上代を模して詠まれたのだと思います。 いや、もっとはっきり言ってしまうと、木更津という地名の由来はそのままとしても、すでにこの地が木更津と呼ばれるようになった後に、詠まれたものではないか、と。 どうも意地悪な書き方になってしまいますが、やはり津(つorづ)とずの違いは、音としての差異も含めて大きいです。あと、個人的にどうしても引っ掛かるのが“君”ですね。この時代の皇子や大王が、自身の后に対して君、と詠むのはわたしにはどうにも違和感があります。妻去らず、妹去らず、子は去らず。これくらいはすぐに、よりポピュラーだったであろう言葉が浮かんでしまいますから。 もっとも別説によればこの歌の君。倭建が弟橘へ呼びかけているものではなく、弟橘を偲んで中々この地を去ろうとしなかった彼の姿を、地元の人々が君去らず、としたというものもある、とのこと。 ...それであるならば皇子である彼が君、とされているのはそう違和感がないかも知れません。ですが、いくら無血服従した可能性が高いとも思える上総の地ではあれど、すぐに君というのもまた、何とも。 ここでも歪を感じていました。歴史に答えなどないことは拙作「あきづしまやまとゆ」でも書きました。過ぎ去っていった時代の重みの中、表と裏は繰り返し、繰り返しして翻ってゆくものであろうことも「あしがちるなにはゆ〜茅渟廻」で書いた記憶があります。 最初から存在しない答え。それはすなわち、今すぐにでも出せる答え、とも言えると思います。...例えば、「わぎもこにあふみゆ〜竹生島」や「なまよみのかひゆ」などでわたしがずっと書き綴っていること。わたしが求めているもの。それはたった1つしかありません。 「太古、人はなぜ謡ったのか」 この永遠の謎があるから、わたしは歌を詠み続けていますし、こうして古歌紀行も続けています。ですが 「人はなぜ謡ったのか」 という謎には答えなどありませんし、それっぽい答えならば、わたしにだっては今すぐにでも出せます。...ただ、それでは嫌なんですね。続けていればもっと納得できる答えに手が届くかも知れません。気づけるかも知れません。現状、その可能性が打ち消せるほどの、納得が得られているのならばともかく。されどそれらはすべてメビウスの輪であり、クラインの壺なのだと思います。 歴史も同じです。恐らくはここに造られたであろう逸話があって、でもその逸話と記紀の何が違うというのでしょうか。記紀がまったき正史と言い切れるものであろうはずのないことは、上代文学を愛するものだからこそ、最初に認めていますし、そもそも歴史に正しさなんて存在しません。どちら側から見ればそれが正しいなどと言えるのでしょうか。 個人的には正義なんてものはすべて人間のエゴだと思っています。真実もまた存在しないものだと思っています。あるものはただ、事実だけです。でも、同時にそれが悪いこととも思っていません。 ここに、この地の先住民たちがいて、けれども為政者としてやって来た者もまた、いた。そして以降の歴史には為政者サイドの視点から正誤、善悪、正邪の境界が設けられ、歴史の舞台にはその位置からのスポットライトしか当てられなくなって...。 それが流血を伴おうが、伴わなかろうが、衝突は衝突です。そして、交流です。新たなものとの交流は獲得であり、同時に喪失でしょう。その失われてしまったものへの愛惜すらも、もしかしたら為政者サイドのみが抱ける特権なのではないだろうか。 恐らく、そんな風に思えてしまったわたしだから、この「君去らづ〜」の歌に違和感を覚えてしまったのでしょうね。...歌には何も罪などないのに。歴史にも罪はないのに、です。 ただ、この作者未詳の歌がそれでも今はこの地の人々に、とても大切にされているという事実がある以上、たぶんそれが全てなのだと思います。倭建同様、この地へ海を渡ってやってきたわたしが、それについて語るのはこれ以上は慎むべき。 そんな風にも感じていました。 あれ去らず またも海つ路渡らまくほしければこそ うけひせめ いましの海を沁まむとぞ かつもあが海沁まむとぞ 違ひ違ひて違へばや 違ふまにまに沁まむとぞ あれはいましにえならざり いましはあれにえならざり こにあれあれば いましあり こにそいましのありゐれば かつもあれあるうつそみに あが眼、あが耳、あがかはへ いづらに寄らず沁み沁みて沁むがまにまに またも渡らむ え帰らず、え知らずものは真澄鏡見むと願はゞけだし見ゆらむ 遼川るか (於:木更津市吾妻神社境内) 吾妻神社は、街中の神社さんだけあって随分と綺麗に手入れがされていて、それだけこの地の人々にとっては馴染み深いお社なのかも知れませんね。但し、式内社ではないことから、やはり歴史的には比較的新しい部類のもの、となるのでしょう。 こちらでも恒例の2礼2拍1礼を済ませ、本日の古歌紀行はここまで。数日後には必ず再訪しようと心に決めて、神奈川へ戻ります。すでにとっぷりと暮れてしまった時刻。流石に今から金谷へ戻ってもフェリーの最終便には間に合いませんから、東京湾横断道路・アクアラインに乗ります。 ...海はもうよく見えません。そしてアクアラインはトンネルヘ。 「次は帰りも絶対にフェリーにしよう。...必ず」 料金所の標識が視界の先に見えていました。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜 目覚まし代わりの携帯のアラームが鳴ったのは4時半。どうやらあまり、いい天気にはなりそうにない色の空が広がっています。丸1日、雨に降られずにいることは、恐らく無理でしょう。でも、それほどの本降りにならなければ、それでよし。いずれにしても、他にもう日程の都合がつきませんから、決行は決行です。 急に思い立って走水と上総を訪ねたのは火曜日のこと。本当は昨日の土曜日にまた上総へ行きたかったのですが、仕事の都合でそうもできず結局、日曜日になってしまい...。今日を逃したら、また数週間お預けになってしまいますので、時間は有効に使わなくてはなりません。帰りを東京湾フェリーにする以上は、上総入りもまた早い時間から、ということで6時20分の始発のフェリーに何が何でも乗ろう、と昨夜のうちから準備は万全です。 まだ家族が寝静まっている家をそろりそろりと抜け出して、車にエンジンをかけました。 朝靄というより、恐らくは霧です。横浜横須賀道路を走りながら随分と視界が悪いことが、かなり気になりました。できれば今日は、ある程度の見晴らしが叶って欲しかったんですけれどね。どうなりますやら。 久里浜港は、日曜日を千葉県で過ごそうという釣り人や、ゴルフ客で意外にも結構な混雑。かなり涼しい朝で、今回は甲板には出ずに客室で最初からうとうとしていました。というのも昨夜も上総各地の調べものでついつい、夜更かししてしまっていたんですね。車主体の古歌紀行で、この睡眠時間はいかがなものか、と。ですが、そうそう簡単には眠ることもできず。 やはり心の何処かが興奮しているのでしょう。 木更津から戻ってすぐに、わたしが始めたのは「万葉集」の洗い直しでした。巻14の東歌や、巻20の防人歌など、上総国に関わりのある万葉歌はすべて洗い出したかったんですね。歌の数から言ってしまえば21首、但し今回の古歌紀行は、あくまでも内房側に限定しているので、それ以外の地域に該当する上総国縁の歌は、また別の機会に見送りです。 上総。後世ではかずさ、と読みますが上古では「かみつふさ」。現・千葉県は、大化の改新以降の律令下に於いて、房総半島の先端界隈を安房国、そして安房を除く千葉県の南半分が上総、北半分が下総の3国に分かれていました(安房は数年の間に何回か他国への統合と分割が行われたため、年によっては国自体が存在していないこともあります)。 何故、南側が上で北側が下なのかと言えば、それが当時の人々の現・千葉県へやって来る時の順番だったからです。はい、つまり倭建よりずっと時代が後でも、海路でやってくるのが基本だった、ということですね。最初に踏む地が上総、そしてどんどん奥へと進んでゆくと下総。 そういう前提で南北に分割したので、上総国は内房だけではなく、外房側も含みます。詳細は割愛しますが、外房の中でも夷隅〜山武というまさしく九十九里浜沿岸は殆ど上総国に含まれていた、と考えていいと思います。 わたし個人の考えでは、流石にエリアが広くなりすぎることと、外房側はのちに訪ねる予定の常陸国との兼ね合いもあること。さらには訪ねないわけにはゆかない必須ポイントの香取神宮が存在していることなどから、今回の古歌紀行は内房に限定することにしたのですが、それでも「万葉集」に採られている縁ある歌数は16首。拡大解釈をすれば17首にも上りました。...もう少し少ないような印象だったんですけれどね。 そしてその半分はやはり防人歌で、東歌も数首、さらにはこちらも東国では必ず登場する高橋蟲麻呂のものが2首。 |
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