伝説そのものの解釈は今回、お話の筋とは殆ど関わりがないのでこれ以上は触れませんが、やはり万葉期にはこの手の悲恋伝説はあちこちに残されていたのでしょう。茅渟とも蟲麻呂とも関係はありませんが、似たような題材として「万葉集」には、こんな歌も採られています。

|題詞:有由縁并雜歌
|昔物有娘子 字曰櫻兒也 于時有二壮子 共誂此娘而捐生挌競貪死相敵
|於是娘子戯欷曰 従古来今未聞未見一女之見徃適二門矣 方今壮子之意有難和平
|不如妾死相害永息 尓乃尋入林中懸樹經死 其兩壮子不敢哀慟血泣漣襟
|各陳心緒作歌二首

|春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも
                        作者不詳「万葉集 巻16-3786」
|題詞:有由縁并雜歌
|昔物有娘子 字曰櫻兒也 于時有二壮子 共誂此娘而捐生挌競貪死相敵
|於是娘子戯欷曰 従古来今未聞未見一女之見徃適二門矣 方今壮子之意有難和平
|不如妾死相害永息 尓乃尋入林中懸樹經死 其兩壮子不敢哀慟血泣漣襟
|各陳心緒作歌二首

|妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに
                        作者不詳「万葉集 巻16-3787」


 こちらはやはり2人の青年に求婚され、2人が命懸けで争ってしまうことに世を儚んで、自決してしまった桜児伝説を下敷きにした短歌2首。歌の詠み手はそれぞれ、桜児に自決されてしまった青年、ということになっていますが...。

 余談になりますが、桜についてもう少し触れておくと後世、定着した「桜と美女と魔性」というカップリング。これは、この現代に至るまで日本文学には受け継がれてきているものですけれど、その先駆けとも言える「桜と美女」の公式は、先の衣通郎姫に端を発し、この桜児伝説でほぼ不動になった、というのが通説となっています。

 さて、とてもよく似た2つの伝説を詠んだ歌群です。でも、蟲麻呂のものと桜児伝説のものでは大きく異なっているんですね。そして、その差異にこそこの国の歌、つまりは倭歌の大きな歴史的分岐点が克明に記録されている、といっても過言ではないと思います。
 高橋蟲麻呂。何故、彼の歌が藤原宇合によって皇后や天皇、そして後宮にまで齎されたのか? 一体、高橋蟲麻呂という歌人はどんな歌人だったのでしょうか?
 ...ここに事実を1つ書くのならば、そもそもこの国の歌の流れは過去に2度、死んでいます。拙作
「さねさしさがむゆ〜足柄峠」でも書きましたが、1回は中世末期です。様式美や虚構美、そしてもはや求道とも言える詠草に次ぐ詠草の中、次第に歌を詠むことに疲れ果ててしまった歌人たちは、連歌という遊興に心を奪われてゆきました。
 そして戦国の世にもなると、もはや歌集らしい歌集も殆ど編まれず、一部の武家や公家によって細々と継承されて来ていた歌が、再び息を吹き返すのは近代まで待たなくてはなりません。

 では、もう1回はいつか? それが万葉末期なんですね。「わぎもこにあふみゆ〜竹生島」「なまよみのかひゆ」でも書きましたので、詳しくは割愛しますけれども、そもそもこの国の最初の歌とは、歌謡でした。実際に節をつけて謡い、時には舞いをも伴い...。そんな中から韻律が自然と生まれ、長歌や短歌、片歌、旋頭歌、仏足石歌といった複数の歌体が発生していったわけです。
 そして歌謡はあくまでも歌謡であって文芸ではなく、またあくまでも歌と舞による雑芸であったことは間違いがありません。何故ならば、この国には文字が無かったからです。大陸渡来の漢字こそ、一部の貴族や役人は習得していましたが、漢字だけで大和言葉を書き表せるわけがないことは、何もわたしが明記するまでもないでしょう。
 そんな中、大陸渡来の漢字を日本語の発音に敢えて割り振り、宛てたこの国最初の文字が誕生します。はい、万葉仮名です。この万葉仮名があったからこそ、記紀も風土記も「万葉集」も。凡そ上代文学と言われるものは口述筆記に近い形で文字化され、記録として残ることができたわけです。
 ...そう、つまり逆を言えば、文字化されなかったために、この現代まで伝わることなく歴史の闇に消えていったものだって、きっと相当数あったであろうことは容易に推測もできることでしょう。

 ただ、律令国家として大和朝廷が確固たるものになればなるほど、大陸の進んだ文化は次々に齎されます。そして、万葉末期にはそういった渡来文化が、最初にこの国に生まれた大和文化を次々と凌駕していったわけで...。
 それまで歌謡として独自に育ってきた歌も同様です。渡来文化である漢詩が持て囃されれば持て囃されるほど、この国で生まれた歌謡、すなわち倭歌は、ほぼ徹底的に衰退させられてしまいます。
 先に引用している蟲麻呂の長歌と、桜児伝説の歌との差異が好例です。あくまでも大和文化に根ざした長歌を詠んだ蟲麻呂に対し、漢文による長い題詞の最後に、短歌が添えられているだけの桜児伝説。
 そしてそうやってこの国独自の歌に拘り続けた蟲麻呂の作品を、藤原宇合はきちんと伝えるべきものである、として皇后や天皇、後宮に持ち込みます。それこそが高橋蟲麻呂歌集なわけで、藤原鎌足の孫にして、不比等の息子。藤原4兄弟の中では最も歌に長けていた、という宇合の思いでもあったのでしょう。

 ...が、そんな大和の歌詠み蟲麻呂も、それを伝えようとした宇合も、時代の流れを食い止めることなどできませんでした。2つの文化が交わり、衝突していた時代。ましてや文字化による記録という、それまでに全く無かった概念の隆起にもよって万葉末期、すでにベクトルを失ってしまったオーセンティックな倭歌は、静かに死んでいったのです。
 時代が変わって平安の世になり、万葉仮名から生まれた平仮名や片仮名と、さらには筆や紙、墨、硯といったものたちが当時の貴族たちに齎されました。それによって花開いたものが、王朝文学の物語、随筆、日記文。さらには復活というよりも、もはや全く別のものとして生まれ変わった和歌だと言えます。
 敢えてラディカルな物言いをさせて戴くならば、文字と文章によって成される芸=文芸が、この国に誕生したのはこの時期と見てしまってもいい、と個人的には思います。もちろん、それ以前にも万葉仮名によって綴られたものはありましたが、そもそも文芸の前提にあるべき文字による記録という側面があまりにも希薄でしたから。

 全く別のものとして生まれ変わった和歌と、万葉期までの歌謡との相違は、表記や歌体だけに留まるものではないでしょう。何よりも大きいのは、内容なのだと思います。それまでの、ただ思いの丈を奔放に謡ってきたはずの歌は、漢詩が湛えている抑制の美意識や、風景への接近、そしてもう1つ。詩としての確立、つまりは1首完結という命題を内包するようになり、その結果として次第に文字へ全面依存する、まさしく文芸に成り代ってゆきます。
 その一方で、平安期になっても文字を持てなかった市井の人々は、それまでと同様に相変わらず謡い続けていました。文芸としては受け継がれなかった、他の歌体の要素をも自在に継承してゆき、平安末期には75調長歌の影響が色濃く残っているであろう今様歌が、大流行。今度はこの今様歌が白拍子などによって貴族たちへ齎されもしましたし、今様歌の韻律がこの21世紀にも確実に継承されている実例は、すでに複数の拙作の中で書いています。

 過日、訪ねた甲斐の国でたまたま現代短歌の大家でいらっしゃる先生と、片歌という歌体についてお話させて戴きました。もちろん、どちらが正しい、とか間違っている、ということではありません。どちらが良い、とも悪い、とも思いません。
 が、わたし自身がそこで悟ったのは、その先生と自身の歌という存在に見ているものの、あまりな格差でした。先生は歌は詩であらねばならない、という前提に立たれていらして、さらには57577という短歌の下3句に相当する、577という歌体である片歌がどうにも心地が良くない、と仰っていたんですね。やっぱり歌は3句切れが基本だから、どうにも...、と。
 一方のわたしです。そもそもの詩の定義を何処に置くのか、という点もかなり先生とでは異なっている、とは思いますが、その定義の中に
「1作(1首)完結、という命題を負っている“文芸”」
 ということが含まれているのだとしたならば、わたしが歌に見ているものは、詩ではない、ということになります。また、3句切れ短歌が主流になったのはあくまでも平安以降であって、万葉期までは2句切れ短歌が圧倒的に主流だったことも、覆しようのない事実です。なので片歌とは元来、歌の根幹を成す韻律(歌体)であったのだろう、と。であるならば、片歌と短歌、短歌と長歌の韻律の差異は、どれも同じことです。歌の根幹である577(片歌)に、57の修辞を幾つ連ねるのか、ということではないのか、と「さねさしさがむゆ〜足柄峠」の中でわたしは書いている次第。

 1首完結。長歌は反歌を伴ってこそ長歌です。わたし自身が最古の歌体だ、と信じている片歌は、もはやそのものずばりで、片歌と片歌が揃うことで完成形(旋頭歌)となります。相聞や贈答を始めとする問答歌も、そして文字だけではなく謡いぶりや節回しなども併せて表現されていた歌謡も。この国の歌は元来、1首完結などしていませんでした。むしろ、そういう概念は後から付加されたもの、と言えます。
 さらに興味深いのが、和歌がもう1回死んだ中世末期。詠草に疲れ果てた歌人たちを救ったのは他でもない、連歌です。...そう、もはや1首完結とはほど遠い競作という作業なんですね。
 これはどういうことなのでしょうか?

 あくまでも私見です。4歳から短歌を始め、その現代短歌を捨てて上代を機軸とした和歌を敢えて選択したわたしの、詠み続けてきた実感でしかありません。1作ごとに必ず明記させて戴いていますし、本作でも改めて記しますけれど、そもそも論ですらありませんし、論拠もありません。
 でも、ただそう感じてしまっている事実を事実として綴るのならば、1首完結という後から持ち込まれた命題と、この国に元来あった短歌という歌体の邂逅。マリアージュとも言えるのかも知れませんが、その邂逅自体がある種の反作用までも内包しているものなのかも知れないのではないか、と...。31文字という制限そのものが、「詩としての短歌」に最大級の限界を負荷してしまっているのではないか、と...。
 極めて個人的な雑感として思っています。

 漢字のようにたった1文字に多くの情報を載せられる言語ではない、表音文字という宿命を負っている大和言葉です。その前提で31文字で完結せよ、ということになれば大なり小なり、抑圧の構図に陥ってしまいます。そしてそこからの脱却として最もシンプルな手段は、当然ですけれど虚構となるでしょう。もしくはストイックなまでの抑制、ともなるかも知れません。
 余談になりますけれど、短歌よりさらに短い俳句は、客観写生という名のもとに抑制、もしくは叙景性という前提のうえに、1句完結する詩なのだと思います。そもそもの誕生自体も連俳、つまりは競作や連作の否定です。
 けれども一方の短歌は本来ある歌としての叙情性を前提に、1首完結の命題を負いきれているのかは正直、甚だ疑問だ、と思わずにはいられないんですね。...もちろん、良し悪しでは語っていません。逆の見方をすれば、そういう困難極まるものだからこそ、この現代、数多の歌人たちがそれに挑み、悩み、苦しんでは試行錯誤している、とも言えるわけで、それこそが文芸性に於ける志向なのだ、とも思います。
 また昨今の短歌は連作や朗読を許容、もしくは積極的に取り込んでいっていることも見聞しています。すでにかつての1首完結の命題そのものも、過去の遺物になり始めていて、現代短歌がまた新たな地平を求めだしているのかも知れませんね。

 ただ、少なくとも自身にその志向を照らし合わせるのならば、どうにも受け容れるのが厳しいかなと率直に思いますし、自身の表現したいこととは随分と距離感を覚えてもしまいます。...そして、それでいいとも思っています。結局、誰しもが自身の納得できることでしか自身を支えられないのですから。
 万葉末期に現れた最後の光華・高橋蟲麻呂。けれども、歴史には名を残してはいなくても、それでも彼のようにこの国に、この国だからこそ生まれた倭歌を、信じて詠んでいた存在は、必ずいたはずです。そしてその名もない1人として、わたしもまた歴史の闇の中へ取り込まれてゆくのならば、それもまた本望、と。そう思っています。
 何故ならば、わたしは歌が好きだからこそ、詠んでいるだけなのです。たったそれだけなのですから、それでいい。そう改められた、茅渟宮跡に降り頻る桜のもとでのひと時。聞こえていたのは、用水路を流れる水音だけでした。


  

 成るものと生ひ立つものと魂合ふ たまさか
 朽つるもの、果てゆくものも八重波のごと

 綿津見ゆ陸処を望む 大和島根よ
 千万の交はりの果て 風吹くかぎり

 い辿りてあなぐり継ぎてなほしい辿り
 源はあれゆ離れゆく 月ゆくごとく

 あらたしき地とて沁むる古りし地とふ
 桜花 来旦にいづへゆ来るらむ

 片糸のごと いまだしく継がれゐる霊
 かたぶけどかたぶきたれど 出づる天つ日

 けだしくもあれあり/\てあらば かの夏
 玉と玉 摺れば聞こゆる瓊響もゆらに

 違ひゐるものなればこそ 火を焼き増され
 いかへるを欲りしゝ川よ、いめとて消えよ

 いづへにも斎磐群はあらざるものと
 統べらるゝ血に宜へば足占も祝かふ

 聞こゆるはいにしへゆなほ降り来るこゑ
 きはみとてきはみにあらず 数多なるゆゑ

 こに在りてこにそ在りゐる歌とふ奇
 幸はひは象のなきみづ あれまたもみづ      遼川るか
 (於:茅渟宮跡)


 茅渟宮跡でぼんやりしている間、タクシーの運転手さんは少し離れた場所で待っていてくれました。児童公園を出てまた畑の真ん中に出ると、目の前に聳えていたのは奈良との境界の山並みです。処々に桜が咲いていて常緑樹の葉の色と、桜の薄紅との柔らかな斑模様が時折吹き寄せる風にざわめき、遠目には何処か海の波のようで...。

 花細し桜に沖つ波見れば弥増す/\に
 水底深し 天つ空愛し              遼川るか
 (於:茅渟宮界隈)


 「すみません、あの山は龍田辺りですか?」
 運転席に着こうとしていた運転手さんに、この日ずっと訊きたかったことを訊いてみました。何となくもしかしら、という予感が...。いや、そんな大袈裟なものでもありませんが、でも位置関係からすると、もしかすると...、という思いがあったからです。
「ああ、あれは葛城の山並みですわ。あの向こう側は、まだ和歌山やのうて、奈良やと思うなあ」
「そうですか。葛城だったんですか。そうだったんですか...」
 2年前、宇智や巨勢、そして葛城一帯を必死に走り回りました。その時の紀行「あきづしまやまとゆ・弐」は途中、パソコンのクラッシュなどで書きかけていた後半の原稿が300枚近く失われてしまい結局、そのまま手をつけずにいます。

 わたしにとっての葛城山。たった1度、訪ねただけでこんなことを書くのもおこがましいのは承知の上で、それでも書くとしたならば。あの山とわたしは何処かで繋がっているように思えてなりません。
 伝承地・高天原、高鴨神社、一言主神社、綏靖天皇高丘宮跡...。記紀それぞれに語られる天孫降臨伝説の舞台は、いまだ畿内のものとは特定されてはいません。いませんけれども、もしも本当に畿内で起こったことを寓話化したものだとしたならば。...倭民族の始祖が立った地、とも言えて来てしまう葛城山系。そこに、悠かな悠かな過去、何らかの形でわたしの血の源のひとしづくが発生したのやも知れない...。
 そう考えると、わたしの頭の中は一瞬で2年前の葛城に戻ってしまいます。高丘宮跡から見下ろした大和盆地の光景も、薄れることなくこの脳裏に焼きついたままです。
 わたしにとっての「あの葛城の山」。それを挟んだ反対側へ、そうとは自覚せずにたどり着いていたことに、改めてあの山と自身がやはり何処かで繋がっている、と思わずにはいられませんでした。

 あきづしまやまとのきはみ 葛城に神の命は
 けふも坐せり あれも参り来            遼川るか
 (於:茅渟宮跡界隈)


 ...もちろん、後ろ髪はとても引かれていました。いたのですけれど、とにかく時間がありません。再びタクシーに乗り込みます。
「今度は何処へ行けばええんやろ?」
「この辺に海岸はないですか? できれば砂浜がある海岸なんですけれども」
「うぅん...。それも和歌と関係ありますのん?」
「はい、茅渟廻。茅渟の海に行きたいんです」
「...この辺はなあ、砂浜なんてものが殆どなくてな。みぃんな工事されていてなぁ。樽井の方まで行かんとないんやけど」
「構いません、お願いします」
 駅前で乗った時からずっと徐行運転だったタクシーが、初めて一般道をゆくスピードで走り始めました。

 「茅渟廻/ちぬみ」、もしくは茅渟の海という名前は万葉歌にも複数登場しています。前述の高橋蟲麻呂のものは省いて列挙してみましょう。

|茅渟廻より雨ぞ降り来る四極の海人綱手干したり濡れもあへむかも
                            船王「万葉集 巻6-999」
|妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず
                         作者不詳「万葉集 巻7-1145」
|茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
              作者不詳「万葉集 巻11-2486」 柿本人麻呂歌集より撰
|茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに
            作者不詳「万葉集 巻11-2486 別記」 柿本人麻呂歌集より撰


 これらの歌の大半に詠まれている茅渟の海は、厳密に言えばこれからわたしが向かおうとしている大阪南部にして、淡路島と紀伊半島の間に横たわる海とは、少しばかり場所が異なります。茅渟の海、という名前は最初こそ前述の通りの海を限定的に指していたものだったのですが、時代が下るにつれてより広義になりました。現在の大阪湾、そのすべてを包括する名前として、茅渟の海が宛てられるようになったんですね。

|茅渟の海波に漂ふ浮き海松のうきを見るはたわかしかりけり 
                     俊頼「夫木和歌抄 巻28 雑10 13449」

       ※ 類似歌が歌枕名寄には摂津の国の歌、として収録されています。

 だからでしょうか。この茅渟の海、という言葉が歌詞にある校歌を掲げる小中学校、高校、大学は、かなりあるようです。現代、「茅渟」という言葉は、話し言葉はもちろんのこと、文学にだって中々登場しなくなってしまっているのが実際です。もう廃れてしまった、もしくは確実に廃れゆく言葉なのでしょう。
 けれどもそんな、いにしえの言葉が校歌の中に残っている、ということにまたしても歌というものの呪力を見たような気がしています。しかもそれらの学校の所在地たるや、奈良、兵庫、大阪などなど結構な広範囲に渡っているんですね。
 そしてもう1つ。少なくとも神奈川帰還後に、わたしが調べた範囲でヒットした、茅渟が登場する校歌の殆どは、今様歌かそれに順ずるものばかりでした。商用の歌ではなく、あくまでも校歌ですので歌詞の引用は控えますが、ご興味のある方は「校歌」と「茅渟」のAND検索をサーチエンジンでかけてみて戴けたら、と思います。

 一方、海ではなく陸の上、河内国の地名となった茅渟ですが、和泉国として独立した泉州の一部に組み込まれるようになり、それまでの河内国から分断されます。

| 「頃者、上下れる諸使、惣て駅家に附ること、理に於て穏にあらず。亦、駅子を苦し
|めむ。今より以降、為に令に依るべし。その能登・安房・和泉等の国は旧に依りて分
|ち立てよ」
             続日本紀「巻20 孝謙天皇 天平宝字元年(757年)5月8日」


 以下、地元の郷土史などを適う範囲で読み聞きした知識になってしまいますが、この和泉国は農作物の収穫高もよくなく、政治的な見地ではあまり好まれない地だったのだ、といいます。けれども、政治家ではない文人には、随分と好まれた形跡もそこそこあるようですね。
 和泉といってすぐに思い浮かぶ、平安期以降の和歌の世界で、先ず落とせない人物たち。1人はその名の通りの和泉式部です。そしてもう1人は、紀貫之でしょう。

 先ずは和泉式部です。和泉式部、という通称の由来は夫であった橘道貞が和泉守に任じられたが故のものだとされていますが、実際に彼女が和泉国へ来たことは、恐らくなかったであろう、というのが通説のようですね。







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