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恐らく、最初にあったものは無だったのだろう。その無から有が生まれて、有からまた無が生まれる。この絶え間ない繰り返しは、波。 そんなことだけを、ただぼんやりと。考える、でも思う、でもなく、ただぼんやりと春の浜辺で感じていました。 〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜 とにかく暢気というか中々暖かくなってはくれなかった今年の春。暖かくなった、と思えばまた凍えるような日が来て、また暖かくなって...。そんな気候に、何となく前へ進むことへの躊躇だとか、過ぎ去ってゆくものへの哀惜だとかを、つい見てしまいそうになっていたのは、きっと気候の所為ではなくてわたし自身の心情によるものなのだ、ということも自覚はしていました。 進む、ということは裏を返せば出発する時点なり地点なりから去り、離れる、ということ。新天地へ進みたいとも切望している一方で、留まりたいとも切望する二律背反。作用と反作用の狭間でどう足掻いた処で、それでも時間だけは確実にひと方向へのベクトルだけを帯びて刻々と進んでゆきます。その黄金律とも言える流れに、様々なカタチで逆らいたがるのも、もしかしたら人間が人間である証なのかも、知れません。 そして、そんな何処か凝っているような自身に対して、きっちりと線を引けてしまえるような機会を、心の片隅で欲しがっていたのでしょう、わたしは。 たまたま大阪への出張が決まったその瞬間、何かがわたしの中で弾けました。 「...茅渟の海。南へ、南へ行こう」 大阪、つまりは難波の国ですが、万葉故地を始め古歌の舞台が様々に犇いています。なのに何故、わざわざ大阪と和歌山の県境近くである茅渟の海を、自分が即座に選択したのか? ...その答えこそが、自身に対して線を引く、ということに思えてしまったのでしょうね、恐らくは。 南。...そう、きちんと春に出会いに行こう、と。それでも進まなくてはならない、と。幸い、大阪でこなす仕事のスケジュールも、綱渡りになることは先ず避けられそうにないな、と思いつつも何とかやり繰りできそうなものでした。 出発の朝、大き目のバッグに仕事道具を詰めながら思い出していたのは去年、訪ねた琵琶湖は竹生島です。 「スーツにハイヒール。よくよくこんな格好での強行軍を、またしようとしているのか、わたしは...」 ほんの微かな自嘲めいた思いを掻き消すように、アパートの扉の鍵はかちん、と鳴って閉まりました。 一旦、出社して一緒に大阪へゆく上司と合流。もし、大阪でのスケジュールがこの上司とすべて同行だったならば、そもそも古歌紀行なんて、当然ですけれど画策はできなかったわけで...。ただ幸いなことに、予定では翌日が彼と一緒にそこそこ大きなプレゼンテーションをしなければならなかったものの、本日。つまりは大阪入りする当日は別行動が決まっていました。...だから、こっそり抜け出そうと思ってしまったんですけれども。 先ずは新横浜へ出て、新幹線に。...そう言えば「のぞみ」に乗るのは今回が初めてだったことに気づきました。これは、日本各地を公私それぞれで訪ねてはいるものの、鉄路のお世話になることがとことん少ないからです。大抵、自分で車を運転して出かけてしまいますからね。 初めて乗った「のぞみ」は驚くような速さで、駅を次々に通過してゆきます。小田原、熱海、三島...。 塩海はかなしび帯ばずあらまくほしや 葦が散る難波、茅渟廻に逢はまくほしや 遼川るか (於:大阪への出発前・自室) 海が見えていました。そういえば、もう数年続けている古歌紀行で、そもそも海を目的地とするのも今回が初めてになる、とようやく悟りました。熊野、奈良各地、足柄、竹生島、山梨各地。これら過去の訪問地の中で、何とか海沿いをかすめることが出来たのは熊野だけ。その熊野も厳密に言うならば、熊野灘そのものが目的地ではありませんでした。 偶然、...ではないでしょう。それだけ畿内を基点とした、記紀万葉の時代の軌跡は、やはり内陸部に多い、ということと根底では繋がっているのだと思いますし、その結果として自身が歩いた地もまた、内陸が多くなりがちだったのだ、と。 海からこの島々へ渡って来た太古のご先祖さまたち。そして、島という陸に根ざし農耕を営みを続けて来た悠かな同胞と、その熱と。 「まずいな...」 上司に聞こえないように、ちいさく洩らした自分がいます。拙作「あきづしまやまとゆ」他で繰り返し、繰り返し書いてきていますが、血です。わたしの中に確かに受け継がれ、刻まれている大和島根に根ざした者たちの地層が、早くも沸きだして、放熱を始めていました。 |名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は 柿本人麻呂「万葉集 巻3-0303」 |越の海の 角鹿の浜ゆ |大船に 真楫貫き下ろし |鯨魚取り 海道に出でて |喘きつつ 我が漕ぎ行けば |ますらをの 手結が浦に |海女娘子 塩焼く煙 |草枕 旅にしあれば |ひとりして 見る験なみ |海神の 手に巻かしたる |玉たすき 懸けて偲ひつ |大和島根を 笠金村「万葉集 巻3-366」 「ますらをの」は手結を、「玉たすき」は懸けを、それぞれ伴う枕詞です。 立地からすれば、上記引用2首は茅渟の海と関わりはないですけれど、大和島根というキーワードで引いてみました。実を言うと「万葉集」にはもう1首、大和島根が詠み込まれている歌がありますが、ごめんなさい。個人的にどうも、大和島根という言葉も思いも、詠み手の身体の底から込み上げてきた歌、というよりは政治的に利用しているように感じられるものなので、引用は控えさせて戴きます。...因みに詠み手は藤原仲麻呂です(万葉集・巻20-4487)。 車窓を流れる風景は、流石にまだまだ冬の名残を湛えていて、田野は田おこしもされていませんし、新緑にも乏しく...。ただ、そんなやや無機質めいた視界に彩りを添えていたのは花です。もう終わりかけの梅と満開の桃、そして西へ進むほどに増えてゆく桜たち。 ...この時期に茅渟を訪ねることができる幸運を改めて、なぞっていました。桜。この日本文学に欠かせない「花の代名詞」とも言える花の、この国での原点。今から、わたしが向かおうとしているものたちの中の、明らかに1つであろうものです。 |
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新大阪に着いたのはお昼を過ぎていました。コイン・ロッカーに大きな荷物を入れて上司と別れます。慣れない大阪の路線図を確かめながら電車に乗って、堺まで。取引先であるスーパーさんにご挨拶と、新商品のご紹介を済ませてこの日の仕事は終了。時計を眺めると、すでに14時を廻っていました。 「...行こう」 再び複雑な路線図を片手にわたしが目指したのはJR阪和線の日根野駅。現地での必要最低時間と、大阪市内へ戻るのにかかる時間と、ホテルへ最悪でも戻っていないとまずい時刻と...。恐らく、過去の古歌紀行では最も時間的にタイトになることは判りきっていましたし、けれども土地勘は全くなく。 これはもう、迷ったりして時間をロスすることは許されないわけで。はてさて、どう効率的に動かなければならないのか? そして、それには訪問先もとことんまで削る以外にないようです。 次第々々に長閑になってゆく車窓を目で追いながら、自身がどうしても訪ねたい場所は? と自問し、そして答えを出してゆきます。わたしが知る限りに於いて古歌や古典文学に登場する、茅渟に纏わるあらゆる旧跡や土地の中から、です。 | 故、其の国より上り行でましし時、浪速渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき。此の |時、登美能那賀須泥毘古、軍を興して待ち向へて戦ひき。爾に御船に入れたる楯を取りて |下り立ちたまひき。故、其の地を号けて楯津と謂ひき。今に日下の蓼津と云ふ。是に登美 |毘古と戦ひたまひし時、五瀬命、御手に登美毘古の痛矢串を負ひたまひき。故、爾に詔り |たまはく、 |「吾は日の神の御子し為て、日に向ひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。 |今より行き廻りて、背に日を負ひて撃たむ」 | と期りたまひて、南の方より廻り幸でましし時、血沼海に至りて、其の御手の血を洗ひ |たまひき。故、血沼海と謂ふ。 「古事記 中巻 神武天皇 1 東征」 茅渟、という地名が日本文学へ最初に登場するのが、この古事記は神武の即位前記です。高千穂を出発して、都とする土地を求めて東へ進んでいた一行は、現在の大阪湾と言われている浪速渡を経て、白肩津(現・東大阪市日下町付近にあった、とされている港)で停泊していた処、登美能那賀須泥毘古の軍勢に攻撃されたんですね。そして、神武の同母の兄である五瀬命が、腕に矢を受けてしまった、と。 五瀬命は 「自分は日の神の御子なのだから、日に向かって敵と戦うのは不吉だ。だからきっと、こんな矢を受けてしまったのだろう。これからは日を背に負いながら戦うことにしよう」 と誓って、南へ迂回するのですけれど、ちょうどその時、辿り着いた海で腕の血を洗い流して。...はい、それによって現在の大阪と和歌山の県境付近にして、紀伊半島と淡路島の間に横たわる海を、血沼海と呼ぶようになった、ということですね。 一方、茅渟という表記での最初の記述は日本書紀になります。 | 秋八月の癸卯の朔己酉に、倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻績 |君の三人、共に夢を同じくして、奏して言さく、 |「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、『大田田根子命を以て、大物主神を祭 |ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下は太平ぎなむ』 |といへり」 | とまうす。天皇、夢の辞を得て、益心に歓びたまふ。布く天下に告ひて大田田根子を求 |ぐに、即ち茅渟県の陶邑に大田田根子を得て貢る。 「日本書紀 巻5 崇神天皇 崇神7年(紀元前91年)8月7日」 拙作「あきづしまやまとゆ・弐」にも書きました意富多々泥古(大田田根子の古事記での表記です)に纏わる記述ですが、彼と彼の一族(鴨氏)が三輪山信仰の祭主となる前に、暮らしていた地こそが茅渟県だった、ということですね。また同時に、ここで言えるのは、そもそもが海につけられたはずの茅渟という名前が、時代が下ると共に隣接する陸、つまりは土地の名前にも遣われるようになっていった、という点です。 余談になりますけれど、この茅渟という土地と鴨氏とそして三輪山。その相関性についても「あきづしまやまとゆ・弐」でわたし自身が書いています。いますけれども、それらに対する追認といいますか、わたしの中で改めて不動とも思える実感を成立させられたのも、今回の茅渟の海紀行へ出向いたからこそ、でしょう。地図を眺めて知ることができるものと、実際に自身の足で出向くこととの格差は、もはや語りようもありません。行ったからこそできる納得。そういうものは、必ずありますから。 さて、この茅渟という表記ですが、茅渟の「茅」は植物のかや。古来、聖なる植物として魔よけの意味を持っていました。一方、茅渟の「渟」。こちらは特別美しい玉、という意味になります。そもそも玉というものは霊や、魂に通じるものとされていましたし、さらには宝玉などの意味も含くまれることから、貴く、美しいもの、とされていたんですね。ですがこの「渟」はただですら貴くて美しい玉の、殊さらに美しいもの、ということですから、神武紀の血沼とは随分とかけ離れた表記になっていると思います。 これについては、あくまでも私見ですが実際に「茅渟」という表記に籠められている意味が、地名に被せられるようになったのは早くても応神期以降だ、と考えています。魔よけの意味などからしても都との相関性から宛てられた意味であろうことは何となく想像できますし、歴代の都の中で、この紀伊と難波の境辺りの土地が関連してきそうなのは十中八九、難波宮となるでしょう。つまり、その難波宮の南側の結界的地名と言えそうですし、そうであるならば難波宮が造られた後に、少なくとも「茅渟」という意味に移行した、と考えなければなりません。 なので、日本書紀編纂に際して、その頃にはすでに周知されていた「茅渟」の意味合いが、難波宮が造られるよりずっと昔の崇神紀にも記載されてしまった、とするのが順当なように思います。 JR阪和線は南へ、南へと走り続けます。たまたまわたしが座っていたのは大阪湾側のシートです。なので、流れてゆく景色はその反対となる内陸側。...ずっと山並みが続いていました。2年前に奈良各地を訪ねましたが、ちょうどあれらの山々を挟んだ向こうから、同じ山並みを眺め、そして登ったことになるのだ、と思います。...生駒や二上、龍田などです。 畿内。そう、まさしく記紀万葉の時代の畿内であった大和盆地の内側と外側、表と裏。2年の月日を経て、わずかに離れた地から、かつて自ら歩いた地を眺めている、という現実に、何故だかは判りませんでしたが、かすかに感傷のようなものが過ぎって、そして消えてゆきました。 過ぎば絶ゆ、過ぐれば消ゆること越えて弥離りゆく 海を懸くれば 遼川るか (於:JR阪和線「日根野」駅への途上) 早くも傾いてしまっている春の陽射し。目に映る光景にも、ほのかに霞んだ薄紅色が掛り始めています。降りる駅名こそ自覚していましたが、その駅に停まってくれる電車の種類と、自分がいま乗っている電車の種類とが一致しているのかもよく判っていなくて、隣に座っていたリクルート・スーツを着ている女の子に尋ねました。...どうやら、何処かで乗り換えなくてもいいようです。 やがて彼女がひと足先に下車します。 「この電車が次に停まるのが日根野ですよ」 とわざわざ声までかけてもらい、ほっとひと安心。改札へ向かう彼女を追い越して、また電車は南へ、南へ。そして車内の電光掲示板に日根野の文字が浮かび上がり、車内放送でもアナウンスがありました。日根野の駅です。 |
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電車を降りた瞬間に感じました。 「風が、違う...」 いまだ春爛漫とは言い難い4月初旬。けれども、和歌山県のごく近くまで来たからなのでしょう。駅に降り立ったわたしを包んだのは明らかに南国のやわらかくて、暖かい、湿った風。...南方からの風です。 「ああ、南へ来たんだなあ...」 そう洩らさずにはいられませんでした。 日根野の駅舎は、どうもそう遠くない過去に建て直されたのでしょうか。意外なほどこざっぱりした印象と構造で、さらに駅前のロータリーへ出ると本当に再開発か何かがあったのだろうな、と確信してしまうくらいに駅周辺だけが妙に近代的で。 でも、その1区画先には、何とも懐かしい風情の家屋がぽつん、ぽつんと見えています。取り敢えず最低限度必要になりそうな周辺の地理を頭に入れよう、と駅前にあったコンビニエンス・ストアへ。けれども肝心な地元の地図が置いていないようなんですね。そのうえ時刻は当初、考えていた以上に遅い時間帯になっていて、大阪市内へ帰っていなければならない時刻のことももちろんそうですが、あまり翳ってしまったら写真が撮れなくなってしまいます。 結局、同じコンビニエンス・ストアの中の雑誌コーナーから移動して、ATMへ。タクシーでの古歌紀行にしよう、と即決しました。 ロータリーに停まっていたタクシーに乗り込み、行き先を告げます。 「茅渟宮跡まで」 処が、これが運転手さんには判らなかったらしく...。 「茅渟宮って何です? 何処にあるんかなあ?」 住所だけは控えていましたから、メモごと運転手さんに渡します。運転手さんは、ロータリーにいた別のタクシーの運転手さんに教わろうと、車を降りる始末。...それくらい、茅渟という土地の歴史が人々に忘れ去れている、ということなのでしょうね。すでに受け継がれなくなり始めている歴史です。 結局、ロータリーにいた別の運転手さんも知らなかったらしく、とにかく住所だけを頼りに進める処まで進もう、ということになりました。あとは、住所的に近いと思われる場所に農協があるから、そこで訊けば何とかなるだろう、と。 「わたし、この土地の生まれでタクシーやって30年になるんやけど、茅渟宮なんて知らんなぁ。行きたいって言ったお客さんもおれへんかったしなぁ」 「...そうですか」 「そこ、何ですの? お客さん、何でそこに行かはりますの?」 確かに、大和盆地に点在している宮跡や御陵のように大規模なものであるはずがない、とは思っていましたけれども、わたしが訪ねようとしている茅渟宮跡は余程、小さくてささやかな史跡なのでしょう。 茅渟宮。この名前は古事記には登場せず、日本書紀にだけ登場しています。時は第19代允恭天皇が統治していた時代。彼の皇后であった忍坂大中姫(安康天皇、雄略天皇の生母)の妹に、衣通郎姫という類稀なる容姿端麗な娘がいまして。この衣通郎姫、その名の通りあまりの美しさに身体そのものが輝きを放っていて、それが纏っている着物から透けて洩れてしまう、というほどだったんですね。 そして当然ですけれど、そういった風評は噂となって允恭天皇の耳にも伝わってしまいますし、そうなれば彼が我がものともしたくなってしまうのも不思議ではないでしょう。 けれども、実の姉妹の姉が皇后、妹が側室というのもなかなか複雑なことにもなってしまいますから、允恭は衣通郎姫を後宮へは迎え入れずに、少し離れた藤原の土地へ匿ったわけです。そして足繁く通っていたものの、自分が臨月を迎えている時まで藤原へ通ってしまう夫に、皇后は自殺を図ってしまい...。流石の允恭もこれには反省したようで、藤原へ通うことを自重しました。 ...が。はい、そこはやっぱり、完全に情を断ち切ることなどは出来なかったわけで、翌年になるとまたこっそり允恭は藤原へ。允恭が来るとは思いもしない衣通郎姫は、その藤原の地で歌を詠んでいました。 |我が夫子が 来へき夕なり。 ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも 衣通郎姫「日本書紀 63 允恭8年(420年)2月」 「わが君が訪れてくれそうな気がする宵です。巣をつくる蜘蛛が今夜はせわしなく動いているのが目に付きます」 これを聞いて歓んだのはお相手の允恭。即座に返したのがこちらです。 |ささらがた 錦の紐を、解き放けて 数は寝ずに、唯一夜のみ。 允恭天皇「日本書紀 64 允恭8年(420年)2月」 「細やかな模様織が施された、錦の腰紐を思い切りゆっくりと解いて、幾夜とは言わずにこの1夜だけは、誰に憚ることなくお前とゆっくり共寝しよう」 さらにはその後朝、再び允恭が詠みます。 |花ぐはし 桜の愛で。 同愛では 早くは愛でず。我が愛づる子ら。 允恭天皇「日本書紀 65 允恭8年(420年)2月」 ...味も素っ気もない言い方をしてしまえば、得てしてこういうことは隠し通せないものなのが人の世の常でもありますし、この国に限らず各国の神話なり古代文学なりの共通項。はい、このお忍びも結局は皇后の耳に入ってしまったわけで、実の姉の嫉妬を恐れた衣通郎姫は、藤原よりさらに遠く離れた土地へ隠れ住むことを、允恭に嘆願します。 そもそも允恭の宮があった地については、日本書紀には明記がされていません。一方の古事記によれば遠つ飛鳥、となっていますね。なので、遠つ飛鳥に允恭の宮があった、として語るのならば、藤原との距離は大したものではありません。現在までに、遠つ飛鳥宮があった厳密な場所は、明確にこそ特定されていません。いませんけれども、奈良の明日香村界隈であることは間違いないですから、現代の感覚で語れば電車の駅1つから2つ分、といった処でしょうか。...徒歩か騎馬が前提としても、十二分に日帰りできる距離でしょう。 その藤原よりもっと遠くへ。そう衣通郎姫は願ったということですね。では、彼女は何処で暮らすようになったのか? はい、そここそが茅渟です。遠つ飛鳥から山越えをした、難波の海の近くに彼女の為に建てられたのが、これからわたしが訪ねようとしている茅渟宮、となります。 日根野の駅前を出発して、取り敢えずのランド・マークとも言える農協に着くまでの間、気さくな運転手さんに訊かれるままに、茅渟宮跡についてぽつり、ぽつりと語り続けていました。 |
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