近江の国に因んだ枕詞としては、先ず「楽浪や/さざなみや」がありますが、これは前述している、天智が遷都した志賀宮の「志賀」を導きます。そして枕詞そのものがもつ色合いとしても、放棄されたかつての都を偲ぶ懐旧、という風情になります。...どうも地理的にも、色合い的にも今回、わたしが訪ねた地域には、ややそぐわない枕詞でしょう。
 一方、琵琶湖というよりは、国としての近江に多く詠みこまれているのが「石走る/いははしる」です。導く言葉は当然ですが、「近江」。...国に因むもの、都に因むもの、と枕詞1つとっても、より表したい内容や、ものに1番そぐう言葉、というものは必ずある訳で、ですが近江の主役とも言える琵琶湖それものに因む枕詞はないのでしょうか?
 はい、ちゃんとあります。それが本作のタイトルにも使わせて戴いている「吾妹子に」となり、導く言葉は「あふ」。つまり逢ふ、から音の響きだけがあれこれと転用されるようになった種類の枕詞、ということですね。琵琶湖は淡水の湖という理由から上古の時代は淡海、と呼ばれていました。あふみ、です。

 蛇足になりますが淡水の反対である海水、つまり海ですが、淡海と対を成す塩海/しほうみ、という言葉あります。
 淡海はやがて、琵琶湖が近つ淡海、浜名湖が遠つ淡海、と呼ばれるようになりますが、これが近江と遠江の語源となったのは言うまでもありません。

 今回、本作のタイトルについて、実は「いははしるあふみゆ」とするか「わぎもこにあふみゆ」とするか、という点をわたしは全く迷いませんでした。理屈で言えば、地域的な雰囲気をより出したいなら「わぎもこに〜」となりますし、紀行文という色合いからすれば「いははしる〜」という方が相応しいでしょう。少なくとも琵琶湖で、わたしに妻恋のような心情はありませんでしたから。
 ...でも、わたしは確かに逢ってしまったんです。とてもとても愛しい「女性」に、彼の地で。なので、本作は迷わず「わぎもこにあふみゆ」、となった訳なんですね。

 万葉集に採られている琵琶湖ゆかりの他の妻恋の歌や、逆に旅に出ている夫に向けた妻からの恋歌などを列挙します。

|近江の海港は八十ちいづくにか君が舟泊て草結びけむ
                        作者不詳「万葉集 巻7-1169」
|近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことありえむや恋しきものを
                        作者不詳「万葉集 巻7-1350」
|近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに
                        作者不詳「万葉集 巻7-1390」
|近江の海沖つ白波知らずとも妹がりといはば七日越え来む
         作者不詳「万葉集 巻11-2435」 柿本朝臣人麻呂之歌集より撰
|近江の海沖漕ぐ舟のいかり下ろし隠りて君が言待つ我れぞ
         作者不詳「万葉集 巻11-2440」 柿本朝臣人麻呂之歌集より撰
|近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ
         作者不詳「万葉集 巻11-2445」 柿本朝臣人麻呂之歌集より撰
|あをによし 奈良山過ぎて
|もののふの 宇治川渡り
|娘子らに 逢坂山に
|手向け草 幣取り置きて
|我妹子に 近江の海の
|沖つ波 来寄る浜辺を
|くれくれと ひとりぞ我が来る
|妹が目を欲り
                       作者不詳「万葉集 巻13-3237」
|逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる
                       作者不詳「万葉集 巻13-3238」


 「もののふの」は宇治、「娘子らに」は逢坂、をそれぞれ導く枕詞です。

 およそ30分間の船旅は最初、岸から離れて乗り出していく湖の、あまりの大きさに...、もっと言ってしまえばきちんと水平線まで見えることに改めて驚き、やがて流石は湖。波による揺れが殆どないことに不思議な気持ちになって。
 やがて気づけば、船の進む先に緑濃い島が現れて来ます。あれが、季節こそ異なりますけれど琵琶湖8景にも選ばれている、「深緑 竹生島沈影」なのでしょう。そう、琵琶湖の青い青い湖水に映る竹生島の影、ですね。そして、この景色を表した名文句があります。
「魚樹にのぼるけしきあり。月海上に浮んでは兎も波を走るか」
 と。...つまり、竹生島の木々が湖水に映っているために、湖を泳ぐ魚たちがまるで樹に登っているようであり、また湖面に映る月の様に、月の兎が波の上を走ってしまうかもしれない、と。それくらい素晴らしい景色。そんな意味になりますが、さて。この名文句が登場するのが、謡曲「竹生島」ですね。
 内容を簡単に綴ります。


 後醍醐天皇の臣下が、霊験あらたかだと名高い竹生島へ参拝しようと四ノ宮、現在の地名で言うなら京都市山科区辺りから、琵琶湖へ向けて出発します。湧き水で有名な走井や逢坂の関を越えて、ようやく湖畔に辿り着いたのですが、ここから竹生島へ向かう船がありません。
 ふと見ると、漁師の翁と蜑女の乗った釣り舟が湖畔へ向かって来ます。さっそく彼が便乗を頼んだところ、聖地・竹生島へのご信心にあれこれ言っては申し訳ない、と翁と蜑女は快諾。
 季節は旧暦3月。のどかな舟旅ののち、目的地・竹生島が間近に見えてきました。その噂に違わぬ絶景に、一同は改めて感嘆の声をあげます。

|シテ「緑樹かげ沈んで」
|地謡「魚樹にのぼるけしきあり。月海上に浮んでは兎も波を走るか。おもしろ
|  の島の景色や」
                              謡曲「竹生島」


 早速、島に上陸した一行は、翁の先導で弁天さまを詣でます。...が、ここで臣下が気づきました。
「確かこの島は女人禁制だったはず。なのになぜ彼女(蜑女)は島に足を踏み入れるのか」
 と。すると翁は、この島の弁天さまは九生如来、つまりは阿弥陀さまの生まれ変わり。元々、弁天さまは女性の姿をしている有難い天女さまゆえ、女性もちゃんと成仏させるべく、決意をされているのですよ、と答えます。そしてさらに、蜑女も翁もひと言。

|地謡「われは人間にあらずとて。社壇の。扉をおし開き。御殿に入らせ給ひけれ
|  ば。翁も水中に。入るかと見しが白波の立ち返りわれは此海の。あるじぞ
|  と言ひすてゝまた。波に入らせ給ひけり」
                              謡曲「竹生島」


 それぞれに自分たちは人間ではないですよ、と仄めかして蜑女は弁天さまの社殿へ、翁は湖へ、消え入ってしまいます。
 さて、竹生島詣をしている臣下を迎えに弁天堂の社人が出て来て、彼らを宝物殿へ案内。続いて岩飛び、というこの島の業を彼らに披露することになりました。西を見れば太陽が沈もうとしていて、東を見れば月がすでに昇っています。そして社人は危険な岩の上から、湖に飛び込みました。...すると、弁天さまの社殿が揺れ始め、輝く後光と一緒に弁天さまが現れます。

|後ヅレ「そもそもこれは。此島に住んで神を敬ひ国を守る。弁財天とは。わが事
|  なり」
|地謡「その時虚空に音楽聞え。音楽聞こえ。花ふりくだる。春の夜の。月にかゝ
|  やく乙女の袂。かへすがへすも。おもしろや」
                              謡曲「竹生島」


 「我こそが、この島の弁才天である」
 と弁天さまが名乗ると、何もないはずの空から妙なる調べが聞こえ、花弁が降り頻ります。春の朧月の光を受ける袂を翻しながら、弁天さまが舞う様は、まさしく天女舞です。そのまま時が経つのも忘れて見入っていると、俄かに湖水が泡立ち、波が烈しく立ちだしました。そして湖中より龍神も出現します。
 龍神は臣下に向けて輝く宝珠を翳げ、先の問いへのこう答えるのです。
「元々、衆生を救おうという誓いは様々。ある時は天女となって信仰という縁を結んだ人々を救い、またある時は龍神として国土を守って誓いを実現していくのですよ」
 と。そして、天女は殿中へ消え、龍神は竜宮へと飛び去っていったのでした。

 わたし自身、観能はかなりの回数でしていますが、残念ながら竹生島はまだ聴いたことがなく、連絡船を降りて桟橋に立つと、改めて
「ああ、一度でも竹生島を聴いていればな...」
 という悔しさが込み上げてきました。だから、というわけではないですが、帰宅してからは、あらこちの能楽堂から届く演目紹介の葉書を見るのが、とても愉しみになっています。
...が、中々そう都合よく竹生島が掛かるわけでもなく、いましばらく竹生島の観能はお預けとなりそうです。

 さて、前述している都久夫須麻神社の祭神3柱。浅井姫命と市杵島姫命については、すでに書きました。...が、最後の1柱です。それが、この謡曲に登場する龍神なんですね。お名前は宇賀神といいます。実は仏像について、私は全くの無知にも等しいのですけれど、少なくとも弁天さまと宇賀神は、同じ水の神ということで、多くの弁天像は、この宇賀神を頭に載せているといいます。...はい、もちろんここ、竹生島の弁天像も同様でした。
 つまり、神仏分離で寺院と神社に分かれてはしまったものの、竹生島という信仰地が祀っているのは、

 1) 竹生島そのもの/浅井姫命
 2) 水神であり、同時に島に坐ます弁天さま(観音さまと同一視)/市杵島姫命
 3) 水神である龍神/宇賀神

 であることは、万葉末期の聖武の時代から平成の世となった今でも、変わっていない、ということですね。

 早朝4時半の神奈川出発からすでに、12時間近くが過ぎていました。当初は来る予定はおろか、そんな考えも全くなかったのですけれど、気持ちの赴くままに上陸した竹生島は、実に島民0人。宝厳寺の人々が交代で宿直はしている、とのことですが、それもそのはず。
 桟橋から、数10mに渡って、ほんの数件だけお土産物屋さんが並んではいたものの、その先には参拝者用の門。そして、そのまた先はいきなり参道の石段・165段が真直ぐに、視線より遥かに高い位置のお寺さんへ続いていました。そう、まさしく島全体が参拝のためだけに存在している、ということなのでしょう。

 連絡船の待合室と船内で少し座っていましたが、正直なところ、すでに少なく見積もっても13kmは歩いたはずの両足に、この急な石段は相当、堪えそうで眺めただけで少々ため息なぞ...。ですが、帰りの船の時刻までには戻ってこなければなりません。意を決して参道の門を通過します。
 後ろの方ではお土産物屋さんのシャッターが次々と閉まる音。店員さんたちはわたしが乗ってきた船でお帰りになるのでしょう。もはや島には寺社の関係者と上陸した10数人しか残っていない、ということですね。
 ならば、今さら人目を気にしても仕方ないだろう、との思いからハイヒールのサンダルを脱いで、裸足で石段を登ることにしました。...石段は真夏日だった昼間の太陽の熱で、まだほんのり温かく何だか気持ち良かったです。

 本来の順路は先に頂上の宝厳寺を拝観し、続いて下りながら都久夫須麻神社を参拝する、というもののようでしたが、たまたま最後尾にいた自分の前に、少し足がお悪いおばあさまがいらっしゃいまして。門の処にいらしたお寺さんの方が、
「順路を逆に、神社から周ると足元がそれほど辛くないですよ」
 と言っていたのが聞こえたので、わたしもそれに倣いました。連絡船ではご家族と一緒にいたはずなのに、何故か独りで階段を登っていくおばあさまのことも、少し気になっていたので、おばあさまの後へのんびりゆっくり、続きます。

 断崖の島の中腹くらいにある都久夫須麻神社の境内では、最初におみくじを引きました。結果は小吉。仕事・健康・金運・恋愛・芸事・願望などなどすべてに渡って書かれていたことは、みな同じ。
「いまはひたすら精進せよ。好機はまだ遠い」
 とのこと。なるほど、そうのでしょう。続いて琵琶湖に向かって開かれた間口に掛かっていた龍神祝詞を必死に書き写します。また、竹生島古来からの慣わしという、かわらけ投げもやらせて戴きました。素焼きの杯に願い事を書いて、湖の波打ち際に立つ鳥居に向かって投げ下ろすんですね。...わたしが投げたかわらけが、琵琶湖へ向かって放物線を描きます。よい場所に届いているといいのですけれどもね。
 そして臨んだ本殿。かわらけ投げで、杯に書いた願い事と全く同じことを、ひとつだけ祈りました。
「自分に連なるすべての人が幸せでありますように」
 と。

                

 秀吉の御座船「日本丸」の廃材で造られた、という船廊下を渡って都久夫須麻神社から宝厳寺観音堂へ移動します。先ほどのおばあさまも、神社で先行していたご家族と合流できたようなので、わたしはここから先を行くことに。
 観音堂では、やはりいつもの習慣で、お守を1つ購入。真鍮の琵琶の形をした鈴で、これはもうひと目で気に入ってしまい、その場で仕事用の携帯にぶら下げました。...プライベートの携帯には、すでに熊野本宮、長谷寺、大神神社などで買ったお守がわさわさぶら下がっていて、スペースが無かったものですから。
 そして時間が時間だったので、宝物殿はパスして真直ぐ本堂に。ご本尊の弁天さまは60年に一度だけ公開されるという秘仏ですから、公開されている別の弁天さまに1礼。こちらでも、同じことを唱えて、駆け足でしたが無事、竹生島詣を終えることができました。
 「祈りの階段」という名前の165段の石段を下りようとした時、さきほどのおばあさまがご家族と一緒に本堂へやって来ました。...が、どうも何かを歌っているような、呟いているような、聞き取れない言葉をブツブツと。よく判りませんでしたが、ともあれ視界いっぱいの琵琶湖をもう一度眺め、桟橋へ向けて祈りの階段を下ります。

 

 桟橋に戻ると、お土産物屋さんも閉まり、先に参拝を済ませた数人もそれぞれにベンチに腰掛けて何を喋るでもなく...。船が到着するにはまだ20分近くあったものですから、先ずは足を綺麗に拭いてサンダルを履き直し、万葉以降の琵琶湖に因む和歌について考えてみました。
 琵琶湖が琵琶湖、と呼ばれるようになったのは近世以降で、万葉期には淡海とか近つ淡海、などと呼ばれていたことは前述の通り。ですが、平安中期からは別の呼ばれ方をしているんですね。鳰の海、と。
 21代集に採られている鳰の海を詠みこんだ和歌群です。

|にほの海や月の光のうつろへば浪の花にも秋はみえけり
               藤原家隆朝臣「新古今和歌集 巻4 秋歌上 389」
|にほの海や霞のをちにこぐ舟のまほにも春のけしきなる哉
                  式子内親王「新勅撰和歌集 巻1 春歌上 16」
|にほの海やかすみてくるゝ春の日にわたるも遠しせたの長橋
                 前大納言為家「新後撰和歌集 巻1 春歌上 33」
|にほの海や秋の夜わたるあまを舟月にのりてや浦つたふらん
              皇太后宮大夫俊成女「玉葉和歌集 巻5 秋歌下 654」
|にほの海や汀の鵆こゑ立て帰らぬ波に/むかし恋つゝ
                  亀山院「続千載和歌集 巻16 雑歌上 1803」
|にほの海は氷とくらししら波のうち出の浜に春風ぞふく
                 源兼氏朝臣「続後拾遺和歌集 巻1 春歌上 38」
|にほの海やかすみて遠き朝明に行かた見えぬあまの釣舟
                前中納言有光「風雅和歌集 巻16 雑歌中 1723」
|鳰の海やひらの山風さゆる夜の空よりこほる有明の月
                   僧正慈能「新拾遺和歌集 巻6 冬歌 629」
|にほの海やけふより春に逢坂の山もかすみて春風ぞ吹
                前中納言定家「新後拾遺和歌集 巻1 春歌上 5」


 これに呼応して、枕詞「鳰照るや」というものも、やはり平安中期以降に出てきますね。導いているのは琵琶湖周辺の地名です。さらにはこの枕詞が中世以降になると「鳰照る」という動詞にもなりまして。言葉の意味は琵琶湖の水面や周辺の露が月に照らされる様、となりますが。
 21代集に限定しないなら、枕詞や動詞を詠み込んでいるものは、わたしが知る範囲でも相当な数がありますけれど、恐らくは特に代表的ではないか、と思われるものを引用します(湖北に地域は限定していません)。

|鳰照るや志賀の浦風春かけてさざ波ながら立つ霞かな
                     公雄「新千載和歌集 巻1 春上 16」
|鳰照るや八橋の渡りする舟をいくそたび見るつ瀬田の橋守
                          兼昌「永久百首 雑 664」
|辛崎や鳰照る沖に雲消えて月の氷に秋風ぞ吹く
                     良経「続後撰和歌集 巻6 秋中 334」
|さざ波や志賀の浦風海吹けば鳰照りまさる月の影かな
                  後嵯峨院「新続古今和歌集 巻4 秋上 448」


 他にエピソードとして興味深いのは、このやりとりでしょう。

|にほ照るや凪たる朝に見渡せば漕ぎ行く跡の浪だにもなし/西行

|ほのぼのと近江の浦を漕ぐ舟の跡なき方に行く心かな/慈円



 これは、文治5年(1189年)の秋に西行が比叡山の慈円を訪ねた際、山から見える琵琶湖について詠んだ歌と、それに対して慈円が返した歌です。因みに西行の歌は「万葉集」に採られている

|世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし
                        沙弥満誓「万葉集 巻3-351」


 を下敷きにしているのですが、この時、西行は
「もう歌は詠まぬと誓ったが、どの歌を最後にすると決めたわけではない」
 と呟いてから、上述の歌を詠んだ、という説話が残っています。そして、この翌年2月に西行入寂。「山家和歌集」などにも当然、採られていない西行のまさしく、絶歌かも知れない1首なんですね。
 そもそも西行は、ご存知の通り私家集「山家和歌集」はもちろん、21代集に265首採られている、という中世屈指の大歌人ですが、和歌の世界に於る功績の1つは、花は桜、というこの現代にまで受け継がれている、公式を定着させた張本人とも言える、ということでしょう。
 一方の慈円は天台密教の中心的人物ですが、和歌でも誉れ高く、新古今和歌集には入歌数第1位である西行の94首に次ぐ、92首が採られていますね。他に歴史書の「愚管抄」、そして私家集である「拾玉集」などを残した、やはりこちらも中世を代表する歌人です。

 余談になりますが、よく人々が語る西行の謎というものが幾つかあります。その1つが彼の入寂の時期でして、要するにあの有名な

|ねがはくば花のしたにて春しなんそのきさらぎのもちづきのころ
                       西行「山家和歌集 巻上 春 77」


 の歌の通り、桜の花が咲きそろう旧暦2月の16日だった、というもの。前述の慈円とのやりとりの凡そ半年後、となります。
 余談ついでに、他にも和歌とは言い切れませんが、やはりこれは書かないわけにいかないのが、源氏です。細かな引用は割愛しますが、そもそも紫式部が源氏物語の構想を得た地こそが琵琶湖畔の石山寺、と。...もっとも石山寺は湖北ではなく、湖南になりますけれどもね。

 琵琶湖という存在が、歴代の日本文学に与えた影響、そして人々にどんな風に思われていたのか、はその時々の情勢によって変わってしまいますし、まして時代が下るほど、和歌そのものがどんどん作り物めいて来るので、これらから手繰り、判断するのは中々に難しいものだと思います。
 ただ少なくとも謡曲「竹生島」ではないですが、その満々と湖水を湛えた光景はきっと誰の目にも美しく、奈良・京都といった都から離れることによる旅情を、改めて掻き立てたのは疑うまでもないでしょう。

 鳰照るや神斎きゐる竹生島あはれ行方も知らず来るも 遼川るか
 (於:竹生島桟橋)








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