東歌として採られている歌群のそれぞれの国の名前には安房と甲斐が登場していません。歴史的に甲斐はともかくとしても安房に関しては天平14〜15年(742〜743年)に上総国に含まれていることから、この巻14の編纂は天平17〜18年(745〜746年)に大まかに編まれ、後に家持が左大弁に任じられてから補註が加えられたのだ、と考えられているようですね。 続日本紀によれば天平17年の事項の中に家持が従五位下に任じられていますが、この年は紫香楽宮への遷都と、行基の大僧正任命などがあり、時の権力者としては橘諸兄が筆頭格。ですから、万葉撰者としても諸兄が中心になっていたのではないか、と思われます。 また国家としての歴史とは別に、大和歌そのものの流れを上代歌謡から順に時代を下っていけば、幾つかの符号が見えてくるんですね。 万葉歌。「万葉集」に採られていたものを歌体で分けるなら、大半が短歌で、続いて長歌約260首、旋頭歌62首。仏足石歌はたったの1首(異伝で仏足石歌とも考えられる、とされている歌が別にもう1首あります)で、上代歌謡に見られる片歌はゼロです。因みにこの後の時代で語るならば、旋頭歌は古今和歌集にたった4首、長歌が5首採られただけ。後撰和歌集以降の勅撰集については、歌数が膨大すぎて検索を断念しましたが、長歌はともかく旋頭歌はなかったように記憶しています(ご存知の方がいらっしゃいましたらぜひ、お知らせください。お願いします)。 つまり、片歌は上代歌謡を最後に、少なくとも記述としての形跡は失われ、仏足石歌は「万葉集」を最後にやはり記述から消え、旋頭歌も古今集を最後に記述から消えた(注:詳細は未確認です)、ということですね。 また、長歌にも大きな変化が万葉後期に起こっています。長歌自体は、こちらも丁寧な検索はかけていませんが、少なくとも室町期に成立している阿仏尼の十六夜日記に登場しています。なので記述上、形跡が万葉期直後に失われたわけではないのでしょうが、やはり最も隆盛したのは万葉期です。その万葉2期の人麻呂は主に五七調の長歌ばかりを詠んでいるのに対し、万葉4期の家持の長歌は七五調が主流になっているんですね。 そして、もう1つ「万葉集」には特筆すべき歌体が採られているのですが、それが連歌です。 |題詞:尼、頭句を作り、大伴家持、尼に誂へられて末句を続きて和する歌一首 | |佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を(尼作る) |刈れる初飯はひとりなるべし(家持続ぐ) 「万葉集 巻8-1635」 こちらは連歌の中でも、上の句と下の句を唱和しただけの短連歌、という形式ですが、これがこの時代に登場していることも、とても気になります。 以前、拙作の片歌連歌に関連してこんなことを発言しました。 片歌。この歌体を数詠んでいて感じました。手前勝手な私見にして感覚論ですが、五七七という音数は休符はあってもひと呼吸で、短歌の五七五七七は2句切れなり、3句切れなり、4句切れなり、必ず何処かで息継ぎしてふた呼吸。記述に残る最も古い和歌は短歌ですけれど、この呼吸数からしてより「叫び」に近いのは片歌で、何となく歌体と言える最古は片歌なのかも知れない、と。 そして、短歌と長歌の差異もそうですが、和歌は後ろ3句である五七七を導く為に五七という修辞を幾つ連ねるかの、というものなのかもしれない、と。「叫び」を修辞する五七。加えて、その顕著な具象が枕詞や序詞とも言えそうですし。より感情の発露としての「叫び」から、文芸になっていったように私見では感じました。 一方、旋頭歌は片歌の掛け合いがやがて、2首併せてひとつの歌体となりましたが、例えば掛け合いの中で、返しを待ちきれなくてまた詠む。そうしているうちに生まれたのかもなあ、と独詠で連歌をしていて思いました。...孤悲です。 詠み始めは片歌×2なのに、どんどん文脈的に続いてしまって五七七五七七の6句の歌になってしまうので。 仏足石歌は短歌を詠んで、でも名残惜しくてもう1句、詠み添えるようにリフレインさせたのかもなあ。五七七という根幹の余韻なのかもなあ、とこちらも数詠んでいて感じました。 誰か先達の理論ではありません。ただ、ひたすら実作を繰り返し繰り返し続けた実体験の末の個人的な実感です。...別に新説を打ち立てたいとかいうのではなく、あくまで私の中ではそう実感した、という事実を書いています。 拙文(FBUNGAKU MES 07 #28883) この私論とすらも言えない極めて個人的な雑感のベースになっているのが、和歌というものが上の句と下の句、つまりは3句切れですが、この3句切れ短歌とそれまでの主流であった2句切れ短歌とが逆転したのが平安中期である、という和歌の歴史です。そう、万葉歌、それも万葉前半は殊、2句切れ短歌が圧倒的に優勢なんですね。 なので、片歌の五七七が歌の根幹とも言えるでしょうし、長歌も五七調が多いのは当然とも言えると思います。五七調では五七、五七......五七、「五七七」と長歌が終わりますから。ですが、これが七五調では崩れるんですね。五七五、七五、七五......七五、「七七」。こういう形で長歌を終えざるを得ないんです。 以下も、以前に書いた記憶がありますが、そもそも「万葉集」の長歌に関してはほぼ100%宮廷歌謡で、要するに制作を誰かから依頼されて詠んでいたものです。そして、五七調と七五調の印象格差は、五七調は短句+長句、と後の方が長い分安定感があって重厚な印象が醸し出せる一方、七五調はこの逆。長句+短句という頭が長い分、軽妙なテンポ感の良さが得られる、ということになります。 先ずこの印象の移行からしても、ますらをぶり⇒たをやめぶり、という和歌の流れに確実に則していると言えそうですし、それは即ち古代のあくまでも叫びや民謡(歌謡)であったものが、次第に文芸として成立していった過程でもある、と言えると私は感じます。 また、文芸として成立すればするほど、政治色は排されますし、より各歌人の個としての色合いも極まります。 「万葉集」はわが国最初の歌集です。全体に関しては非勅撰ではありますが、少なくとも巻1,2は勅撰と見るのが、ほぼ定説ともなりつつあります。そして、その撰者は当然ですけれど、それまで混沌としていた大和歌というものを、最初に編み、その後の方向性というかある程度のレールを敷いた、とも言えるわけで、橘諸兄や家持といった万葉末期の歌人たちが、東歌の編纂に当たって意図的に短歌以外の歌体を排した、もしくは文芸として彼らの食指が動かなかったので排した、とは考えられないでしょうか。 その結果が短歌だけの東歌であり、それを受け継いだ貫之によって五七七を根幹とする旋頭歌の撰歌数が圧倒的に減少した、とも言えそうな気がしてならないんですね。 時代は流れ、平安中期には3句切れ短歌が主流となります。これも長歌の転調同様、頭(上の句)が長く、後ろ(下の句)が短い、軽妙さが嗜好されたからとも言えるでしょうし、それと平行して少なくとも記述上では家持によって始まった短連歌もその流れに幾らかは寄与していた、とも考えられるでしょう。 さらに古今集あたりから見られる「複視線的スタイル」の短歌も、この短連歌の影響、と言えるかも知れません。 足柄からはやや離れますが、もう少し和歌の流れについて個人的雑感を書きます。平安に入り、「たをやめぶり」となった和歌は、文芸としてさらに極まり、数々の技巧を凝らした「幽玄」の新古今へと移行します。 この頃になると、もはやある種の求道と言いますか、修行のような色合いも濃くなり、各歌人による百首纏めての詠草とか、歌合せなどの腕の競い合いも多数見られるようになります。そんな状態は1500年代くらいまで続きますが、新古今以降の勅撰和歌集などを見ても、和歌としての最盛期はもはや過ぎてしまった印象が拭えないように思えてなりません。そして、1500年代以降は歌集らしい歌集も編まれず、和歌は一握りのお武家さんやお公家さんの嗜みとしてしか、その形を残さなくなってしまいます。 ...が、実はここにもう1つの潮流があるんですね。それが、連歌です。個の文芸としての和歌が行き着くところまで行き着いてしまった中世、次第々々に影が薄くなっていった和歌に代わって隆盛したものが連歌で、複数の文献曰く 「技巧を極め、求道的に作歌し続けたことによって疲れ果てていた歌人たちを、遊興という形で連歌は癒したのだ」 と。個人的にもこれは、判らなくないんですね。ずうっと歌ばかり真剣にやっていると時々に無性に連句がやりたくなりますし、逆にそうやって少し連句をやればまた、歌に戻れると言いますか。 ただその連歌も最初はお遊び的要素が強かったものの、次第にある種の洗練がされていき連歌本式や、連歌新式といった形式とルールが生まれます。そして、これを受け継いだのが巨人・松尾芭蕉であり、彼によって整備された式目と蕉風連句が、上代歌謡⇒ますらをぶり⇒たをやめぶり⇒幽玄⇒連歌⇒蕉風連句、という流れで和歌そのものを継承していった、とも言えるように私は感じています。 近代になり、流れの途絶えていた和歌は近代短歌や現代短歌として復活していますが、連綿と受け継がれた大和歌の嫡流はもしかすると、連句なのかも知れない。...そんな風に最近は感じるようになりました。 そもそも大和歌は文芸になる前は唱和するものでした。古事記にこんな歌があります。 |あめつつ ちどりましとと など黥ける利目 伊須気余理比売「古事記18 中巻 神武天皇 6 皇后の選定」 |嬢子に 直に遇はむと 我が黥ける利目 大久米命「古事記19 中巻 神武天皇 6 皇后の選定」 これは神武が皇后を選ぶ際、従えていた大久米命を遣わせて後の皇后となった伊須気余理比売にその旨を伝えさせたことで発生した、片歌の掛け合いです。 記述に残る片歌の掛け合いとしては、倭建命と御火焼翁のものが有名ですし、連歌が筑波の道と言われることからしても、以下に引用させて戴いている問答歌が、連歌の祖とされているのも事実(さらに遡れば、伊耶那岐・伊耶那美の国生みでの唱和、「あなにやしえをとめ」「あなにやしえをとこ」こそが連歌の祖、という考え方もあります)ですが、実は記述に残る最古の片歌による掛け合いは、伊須気余理比売と大久米命によるもの、となります。 |新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる 倭建命「古事記26 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」 |日日並べて夜は九夜 日には十日を 御火焼翁「古事記27 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」 連歌の祖が伊耶那岐・伊耶那美なのか、伊須気余理比売と大久米命なのか。はたまた倭建命か万葉の家持なのかはともかく、いずれにせよそもそも大和歌というものが唱和するものであった、という前提に立つのであるならば、やはり大和歌の嫡流的末端は連句。そう考えるのもまた、それほど無理筋ではないのかもしれませんね。 随分と脱線してしまいましたが、お話を歌垣に戻します。件の伊須気余理比売と大久米命の掛け合いからもう1つ垣間見えるのが、歌垣での慣わしです。 伊耶那岐・伊耶那美では先に女性が歌うのは問題あり、となっていますが最古の片歌唱和に於る求愛では女性が先。これは歌の掛け合いという要素そのものに関わるお話なのですが、要は掛け合いというものが、先に歌った者の思いをどれだけ包み込み、その上でそこから如何に羽ばたき飛躍できるのか、という力量を試していた、という学説があります。...この考え方などは、ほぼ現在の連句の転じと同質と言えそうですが、歌垣に於いて力を試されるのはやはり男性となり、逆に先に唱和するのが女性だった、ということです。 そういう観点で「万葉集」に採られている歌垣歌を見ていくと、やはり圧倒的に男性の詠んだものが多く、文芸というベクトルで「万葉集」の編纂にあたっていた諸兄や家持からすれば、より大きく飛躍できていた歌の、さらには短歌だけを採った...。そういう考察も成立するように思えてしまうのも、個人的にはそれほど暴論ではないように感じるのですが、如何でしょうか。 大きな、とても大きなカーブを曲がりました。すると途端に左手が見晴台のようになり、右手には駐車場が。足柄峠の頂上に造られた足柄万葉公園です。防人たちが悲痛な思いで越え、かつてこの近隣で暮らしていた若い男女が歌を唱和し合ったかも知れない足柄峠に、ようやく辿り着きました。 車を降りてから気づいたのは、自分が凡そ山歩きなどするような身支度をしていない、ということで靴と言えば仕事用のハイヒールか運転用のローヒール・パンプス、服装は社名の縫い取りのある作業ジャンパーとパンツで、デジカメも持っていませんでした。...如何に急な思い立ちでやって来てしまったかを改めて実感し、失笑してしまいましたね。 取り敢えずデジカメの代用として仕事用の携帯電話を首から下げ、運転用ローヒール・パンプスで先ずは見晴台からの眺望を。登り途中では見られなかった矢倉岳がしっかり見え、麓の方では小田原の街並み、そしてその先には相模湾がかすかに見えます。空はまさしく真っ青で、雨後の山々は緑が色濃く、陽射しもまた目に眩しいほどでした。 実はこの数日前、ちょうど1年前に亡母と同じ病気を発症した叔父の病状が悪化したことから、かなり精神的に滅入っていました。100万人に数人、罹患するかしないか、と言われている全くの原因不明によるその難病の影は、20代からずっと私の人生に付きまとっています。といって何をどうすればいいのかすらも見当がつかないだけに、考えても無駄なことと承知しているんですけれどね。承知してはいるものの、やはり時々どうしようもない恐怖に襲われて、自傷願望が抑えられなくなります。 それだけに改めて、こうやって思い立った途端に足柄までやって来てしまえる自身の実際と、精神的な支柱となってくれている歌というものの有り難味が込み上げてきて、泣き虫の本領を発揮してしまいました。 |
|||
|
|||
気を取り直して、万葉公園を散策します。前日までの雨で足場は悪く、おまけに公園自体があまり整備されてはいません。歴史的な古道などは、可能な限り人為的に手を加えないで欲しい、と思いますがこの手のそれ専用に造られた施設はもう少し何とかならないものかな、などと独りごちつつ園内は隈なく歩きました。設置されていた万葉歌碑は7基、植えられた万葉植物は90種にものぼるそうですが、携帯電話のデジカメで押さえられたのは歌碑7基と数年ぶりに見たのではないか、と感じた数種類の蝶だけ。 可笑しなもので、本来は蝶や蛾といったものがとにかく嫌いで、近くに飛んで来られることすら恐怖なんですが、この日は蝶たちとの出会いも嬉しく、そっと手を伸ばして軽く触れてみたりもして。 土の匂いが胸一杯に満ちて、それまで抱え込んでいた心の闇がとけて気化していくようにすら感じていました。 澄み切れぬ思ひを映す空 たゞ広く 焦がれては登りゆく山 もつと近くへ 土の香でこの焦燥をしづかに溶かし 両腕をひらいて逃がす闇 水彩画 /ノガス 世界とは内と外との両界曼荼羅 内在と表現 天はそれぞれにある あがうちのミクロコスモス それは深海 水圧に抗へばこそ叶ふ実感 お守の袋は叶結びで飾る 天球儀 手を添へながら呪文をひとつ 呪ひとてまた祝ひとて祀りは祀り 火が爆ぜる、祝詞が上がる、夜はまだ明けぬ 燃え尽きた気だるさ纏ひまだ微睡むも 無情なる朝が再び 冷えゆくうなじ 蒼穹はたゞ/\無限 然るに無間 自らのちひさゝだけを確かめたくて 自づから逢魔時に安堵してゐる 煌きは消滅の色 極限は美で 滅すれば発する 波も、雲も、光も 清澄を望む 出来うることは信愛 遼川るか (於:足柄万葉公園) |
|||
小1時間ほど散策し、再び見晴台から周囲を見渡しました。 「...あづまはや」 やはり、この場所ではこう呟いてみたくなります。「あづまはや」、つまりは「吾妻はや」です。東歌にしてもそうですが、東国をあずま、と呼ぶ起源。それがこの足柄峠にあります。問題の台詞を残したとされる人物、それが倭建命なんですね。 倭建命。彼の東征などに関する詳細は拙作「あきづしまやまとゆ・弐」にも書いていますので割愛させて戴きますが、出雲建征伐を終えて大和は纏向の日代宮へ帰参した彼は、大して間もおかずに今度は東国征伐を父親の第12代景行天皇に命じられます。 その後の移動経路は尾張⇒駿河(焼津)⇒相模(走水海/現・浦賀水道)⇒上総⇒常陸(筑波山)⇒相模(足柄峠)⇒甲斐(酒折宮)⇒信濃(御坂峠)⇒尾張⇒美濃(伊吹山)⇒伊勢(尾津)⇒近江(能煩野)となりますが(前述の通り古事記によります。日本書紀は別ルートです)、足柄峠に関連ある出来事としては、焼津で彼を殺そうとした国造たちを逆に滅ぼし、走水で現在の東京湾を渡ろうとした処、海神の怒りにふれて暴風雨に見舞われ...。これを鎮めたのが、随行していた彼の妻である弟橘比売命です。彼女が荒波逆巻く海へ入水したことで海神の怒りも解け、一行は上総へ着くことができたわけなんですね。 この時、彼女が残した歌です(日本書紀には類似歌が見られません)。 |さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも 弟橘比売命「古事記 25 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」 これは焼津での戦いのさなか、自分を気遣ってくれた倭建に対し、そのあなたのためなのだから、という歌意となります。その後も征伐が続き、ようやく東国を平定した倭建一行は足柄峠に到着します。 峠より、今からあとにしなければならない相武(相模)の国を眺めた彼は、自分の為に命を投げ出した弟橘比売を思い出して呟きました。 「あづまはや」 あゝ、最愛の妻よ。そんな感じになるでしょうか。そしてこの言葉を起源に、この足柄峠より東の地域を吾妻もしくは東、と呼ぶようになったんですね。 一部の資料によると、当時の海岸線はもっと内陸部まで入り込んでいたらしく、相模湾は現在の伊勢原市あたりまであった、といいます。つまり私がこの日に通過して来ていた、茅ヶ崎や大磯・小田原辺りは水没していた可能性が高いのでしょう。なるほど、海岸線がそこまで入り込んでいたのなら、足柄峠からは確実に広く相模湾が見渡せたでしょうし、彼が弟橘比売を偲んで3度も嘆いた、というのも一気に臨場感が迫ってくるものになります。 余談になりますが、前述の御火焼翁との片歌の掛け合いは、この足柄峠を通過したあとでのお話。 今から遠い遠い万葉、そしてさらに遠い記紀の時代。畿内中心に始まった1つの国家としての日本の歴史に於いて此処、さねさしさがむは辺境の地でした。現在も残る記述は、主には記紀、万葉集、続日本紀くらいで、常陸風土記も常陸と銘打っているだけあって、直接的な相模の国に関わる記述は殆どなかったと思います。 ですが、人々は生きていました。暮らしていました。そして当たり前のことですが、そこには人間らしい家族愛も、恋愛もあったわけで。神奈川生まれの神奈川育ちである私は、父方が鹿児島、母方が静岡の家系ですから、恐らくは相模縁の血筋ではないでしょう。 |
|||
BEFORE BACK NEXT |