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何故、と問われたならば、そうしたいから。そう答える以外に何もなく。ただ確かなまでに揺るぎない答えがひとつ、この胸に。...ただ、ただそうしたいから、と。 〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜 4月半ばくらいから、自分の中で抑えがたい衝動が繰り返し、繰り返し、込み上げてはひき、ひいてはまた込み上げていました。窓を締め切った部屋の空気は淀み、流れのない水もまた次第に淀んでいくもので、とにかく新しい風と、新しい波と、出会いたい、と。 新年度の人事異動で、望んでもいない昇格が決まり、さらには入退院を繰り返す父に関連し、時間的にも経済的にも余裕がなくなりゆく中、予定していた出雲旅行は断念せざるを得ず、かといって淀み濁ってゆく自分への怯えは日毎に募るばかり。鬱屈とした日々が続きました。 チャンスはふいにやって来ました。連日の雨が嘘のように晴れた金曜日。たまたま仕事で小田原へ行くことになっていたのですが、当日のスケジュールを工夫すれば何とか4時間程度、フリータイムを捻出できる幅があることに気づき...。 止められませんでした。有給をとっての行為ならまだしも、仕事中に実行するという非道さには流石に気がひけましたけれど、これを逃したら今度はいつ、チャンスが来るかも判らず。 「...行こう」 慌てて会社の端末から関連ポイントの位置関係を確認し、当初の予定より2時間早く会社を出発。スケジュールを前倒しにしながら茅ヶ崎、大磯、小田原と3件の客先でのプレゼンテーションを終えたのが午後1時近く。最後のアポイントが夜の7時過ぎに厚木でしたから、移動時間を考えれば充分に4時間ならば確保できました。 普段はカーナビなどというものは嫌いで使わないのですけれど、効率的に廻らなければならない以上、社用車のカーナビもこっそり使用。...ガソリンだけは良心の呵責に耐えかねて、自費にしましたが。 目指した先は足柄峠。小田原からは車ならほんの30分程度で着ける神奈川と静岡の県境です。そして、「万葉集」に私が知る限りでは19首、歌や詞書に詠みこまれていたり、関連している、という東歌の舞台。さらには、倭建命の東征にも登場(古事記と常陸風土記による。日本書紀ではルートが異なり、上野/現・群馬県と信濃/現・長野県境の碓井峠/現・鳥居峠となっています)している上代文学の舞台でもあります。 |足柄の み坂給はり |返り見ず 我れは越え行く |荒し夫も 立しやはばかる |不破の関 越えて我は行く |馬の爪 筑紫の崎に |留まり居て 我れは斎はむ |諸々は 幸くと申す 帰り来までに 倭文部可良麻呂「万葉集 巻20-4372」 「峠の神のいらっしゃる、という足柄の坂を通させて戴いて、後ろも振り返らずに私は行く。猛々しい男ですら立ち止まり行くのを憚る、という不破の関を越えて私は行く。筑紫の崎に留まり、潔斎をして私は祈ろう。人々の無事を、神に祈願するだろう。帰って来るまで」 万葉期、足柄の峠は防人として東国から筑紫へ向かう人々が越えなければならない、最初の難所でした。また、それを見送る妻たちにとってもこの峠がまさに精神的な別れの地、と言えたんですね。 防人。この名前の徴兵制度は天智3年(664年)に始まり、8世紀の末まで続いています。 |是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防と烽とを置く。 「日本書紀 巻27 天智3年(664年)」 この前年には白村江の戦いで大敗を喫した中大兄皇子が、帰国後に天智として即位。当然、当時の唐、新羅などとの国際緊張の中では、防衛最前線とも言える各地に防備兵は不可欠だったのでしょう。 ただ、この防人制度が少々変質するのが天平2年(730年)で |己卯、諸国の防人を停む。 「続日本紀 巻10 聖武天皇 天平2年(730年)9月28日」 とあり、これ以降は東国民衆だけが防人にあてられるようになっています。この理由についてはよく判りませんが、一説には東国の勢力を弱体化させる為、という大和朝廷の思惑によるもの、とされていますね。 万葉末期、東国とされていた地域は上総・下総/現・千葉県、常陸/現・茨城県、信濃/現・長野県、遠江・駿河・伊豆/現・静岡県、相模/現・神奈川県、武蔵/現・東京都・埼玉県、上野/現・群馬県、下野/現・栃木県、陸奥/現・福島県以北、の12ヶ国だったようです。また当時、施行されていた軍防令を見れば、この東国からの防人というものが、どれほどに過酷だったのかが自ずと手繰れるでしょう。関連する項目を少し例示してみます。 1) 都を守護する衛士の任期は1年。防人は3年。しかも、これは任地での期間であって 任地までの往復日程は含まれない。恐らく実際は3年半くらいには及んだのだろ うと思われる(父なり、夫なり、息子なり、一家の働き手を失う家族はその間、残っ た人数で全てを切り盛りしなければならなかった、ということでもあります)。 (軍防令 08 兵士上番条) 2) 防人への食料支給は、難波港で乗船してからのみ。東国から難波までの行程は全 て自弁だった。 (軍防令 56 齎私粮条) 他にも任期を終えて、故郷へ帰る旧防人たちが途中で行き倒れた場合の処置についても詳細に定められていて、裏を返せば法制化しなければならなかったほど、そういう例が後を絶たなかったから、と言えるのでしょう。実際にそういう歌も「万葉集」に残っています。 |題詞:足柄坂見死人作歌一首 | |小垣内の 麻を引き干し |妹なねが 作り着せけむ |白栲の 紐をも解かず |一重結ふ 帯を三重結ひ |苦しきに 仕へ奉りて |今だにも 国に罷りて |父母も 妻をも見むと |思ひつつ 行きけむ君は |鶏が鳴く 東の国の |畏きや 神の御坂に |和妙の 衣寒らに |ぬばたまの 髪は乱れて |国問へど 国をも告らず |家問へど 家をも言はず |ますらをの 行きのまにまに |ここに臥やせる 田邊福麻呂「万葉集 巻9-1800」 田邊福麻呂之歌集より撰 「鶏が鳴く」は東を導く枕詞。 「題詞:足柄の坂を過ぎて身罷れる人を見て作る歌1首 垣の内の麻を引き抜いて干し、妻が作って着せたであろう白い着物の紐も解かず、一重の帯を三重に結ぶほど痩せ、苦しい任務を果たしてようやく今、国に帰り父母や妻に会おう、と思いながら東下りしたあなたは、東国の恐れ多い神が御座す足柄の御坂で、御霊を包む衣も寒々とし、髪は乱れ、国を尋ねてもその国を言わず、家を尋ねてもその家を言わず、堂々たる男子が、遠い旅路の果てにこうしてここに横たわっていることだ」 「万葉集」巻20。これは歌集としての最終巻でもあり、家持歌日記の最後でもあり、そして上述のような東国からの防人たちや、残される家族たちの歌が多く採られた、哀傷歌の巻でもあります。 先に引用させて戴いた歌の他に、足柄峠に関連する防人やその妻の歌です。 |我が行きの息づくしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね 都筑郡 上丁服部於由「万葉集 巻20-4421」 |我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も 都筑郡 上丁服部於由の妻服部呰女「万葉集 巻20-4422」 「私の旅を嘆くことがとめられないのなら、足柄の峰にかかる雲を見ながら私を偲んでおくれ/夫」 「夫を送り出して、愛しさから帯は解かずに心乱れて寝ることであろうか/妻」 |足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも 埼玉郡 上丁藤原部等母麻呂「万葉集 巻20-4423」 |色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む 埼玉郡 上丁藤原部等母麻呂の妻物部刀自賣「万葉集 巻20-4424」 「足柄の御坂に立って袖を振れば、家にいる妻にそれ、と見えるだろうか/夫」 「色濃く夫の衣を染めれば良かった。足柄の御坂を通らせて戴く時にはっきりと見えただろうから/妻」 余談になりますが、歌番号#4422には、元歌があります(足柄とは直接は関係ありません)。上記引用の歌群はみな天平勝宝7年(755年)のもの、とされていますが、元歌はそれよりも古くから伝承されていた防人歌のようです。こちらも引用しておきます。 |我が背なを筑紫は遣りて愛しみえひは解かななあやにかも寝む 作者不詳「万葉集 巻20-4428」 峠へ向かう急勾配、次々と続くカーブにハンドルを切りながら次第に拓けていく景色をただただ眩しく感じていました。抜けるほど青い空が梢の間から零れ、思わず開けた車窓から木々が発する緑の香りと、気持ちのいい風が流れ込んできて。...これが、これが欲しかったんです。 弥日異にほり来たるもの あらたしき風 あらたしき色にそ染まらまくほしきものを 遼川るか おのづから過ぐれば古りぬ 古るれば老いぬ 復ち水のごとき香の満つ日こそ待ちしか 遼川るか (於:県道関本御殿場線、足柄峠への途上) 今でこそ、舗装もされて道幅もそこそこ広い峠への道ですが、万葉の時代には一体、どれほどの難所であったのかは見当もつきません。まして、これから難波へと向かう防人たちにとって、この山が実際の険しさ以上に心に険しく聳えていたであろうことも、頭では考えられますが到底、想像などできようはずもないでしょう。 山道をさらに進みます。左手はほぼ崖のようになっていて、一方の右手が山肌なので、当然ですが右手の山々は距離が近すぎて全容が見えません。峠までのほぼ中間辺りで、恐らくは登っている足柄山の1つ向こうに和乎可鶏山があるであろう、ということも判っていたのですが、眺めるのは峠までのお預けです。 |足柄のわを可鶏山のかづの木の我をかづさねも門さかずとも 作者不詳「万葉集 巻14-3432」 「足柄の和乎可鶏山の穀の木ではないですが、どうか私をかどわかしてくださいな。どんなにお誘いになっても構いません」 和乎可鶏山。こちらは一説には足柄山の隣に聳える矢倉岳のこととされていて、個人的にもそう考えています。一方のかづの木は一般に漆のこととされていますね。といって、漆そのものにかどわかす、つまりは誘うとか攫うとかいった意味があるのではなく、単純に当時の言葉「かづす/誘うの意」に引っ掛けたもの。「〜わおかけやまのかづのきの」までの上3句が、「わをかづさねも」を導く序詞になっているんですね。 足柄峠が「万葉集」に於いて、防人歌に因んだ地として登場していることは前述の通りです。けれども、この峠はもう1つの意味でも「万葉集」に登場しているんですね。そう、東歌です。そして、この足柄に纏わる東歌を丁寧に眺めていくと、上代歌謡から始まる大和歌の流れの1つの足跡が、私には彷彿とされて来るように思えてならないのです。 その典型的な例歌が上記引用のものでもありますし、それ以外のものも纏めてご紹介しましょう。 |足柄のをてもこのもにさすわなのかなるましづみ子ろ我れ紐解く 作者不詳「万葉集 巻14-3361」 |我が背子を大和へ遣りて待つしだす足柄山の杉の木の間か 作者不詳「万葉集 巻14-3363」 |足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし 作者不詳「万葉集 巻14-3364」 |百づ島足柄小舟歩き多み目こそ離るらめ心は思へど 作者不詳「万葉集 巻14-3367」 |あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに 作者不詳「万葉集 巻14-3368」 |あしがりの麻万の小菅の菅枕あぜかまかさむ子ろせ手枕 作者不詳「万葉集 巻14-3369」 |あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む 作者不詳「万葉集 巻14-3370」 |足柄のみ坂畏み曇り夜の我が下ばへをこち出つるかも 作者不詳「万葉集 巻14-3371」 |足柄の安伎奈の山に引こ船の後引かしもよここばこがたに 作者不詳「万葉集 巻14-3431」 あしがり、は足柄の別称。ここでご紹介した歌群は「万葉集」巻14、つまりは東歌の巻に「相模国歌」として収録されているものばかりです。 東歌。それは「万葉集」の中でもとびきり素朴で、率直で、土の匂いに満ちた人間讃歌とも言えるもので、都のあった畿内の万葉歌に対し、東国訛もそのままに採られている歌々は、読んでいる者の心を大きく揺さぶります。 その多くはさらに昔、古代より歌い継がれていた地元の民謡であったり、農作業の為の労働歌であったりするのですが、どうもそれだけではない気がしてしまうんですね。 幾つものカーブを遣り過ごしては峠を目指していると、途中々々で様々な道標や立て札と出会います。その中の1つにこうありました。 「地蔵堂 至大雄山駅約10km(右) 古道・聖天堂・金時山(左)」 金時山、というのは金太郎伝説で有名な坂田金時が子供の頃に育った山のことですし、古道というのは足柄古道のこと。足柄古道は奈良時代〜鎌倉時代まで、相模と駿河や甲州を繋ぐ唯一の官道であった足柄路(のちの東山道に繋がっています)のことで、現在も必要に応じて保全されながら残っています。 余談になりますが、この足柄路は延暦21年(802年)の富士山の噴火によって一時埋もれてしまい、その後に復旧はしたものの、やがて人々が伊豆の国府三島を多く経由するようになったことから、廃れていきました。代わって東国と畿内を結ぶ主要道は箱根路へ。そう、江戸期には「入り鉄砲と出をんな」など、その取締りの厳しさで名を馳せた、箱根の関所がある道(東海道)に、人々の足が移ってしまった、ということですね。 ただ、ここで注目したいのは金時山でも、足柄古道でもなく、聖天堂です。私自身はこの日、聖天堂までは行けませんでしたし、行った処で祀られている本尊の聖天尊(大聖歓喜双身天、浅草聖天・生駒聖天と並ぶ日本3大聖天尊の1つ)は秘仏なので、拝観することも叶わなかったのでしょうが。 聖天尊。言うまでもなく男女和合の象頭仏で、一般に大自在天の長男である大暴神(男天)と十一面観音の化身(女天)の和合像、といいます。また、この聖天を祀る聖天堂は弘仁2年(811年)の建立とされていますが、例大祭である4月20日には、かなり最近まで青空賭博も開かれていたようです。 |
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上記引用している東歌はどれも素朴な恋歌ですが、それだけでなく農作業に関連するもの(#3364)もあり、また論文で確実に歌垣歌、とされているもの(#3369)まであります。 拙作「あきづしまやまとゆ・弐」の中でも書きましたが歌垣は、そもそもは豊作を祈念する農耕祭事です。けれどもそうやって大勢、人が集まった結果、若い男女による集団飲食のような催し物ともなり、さらには大らかな性の解放にも発展しました。 東国ではとにかく筑波山が歌垣の舞台として有名ですが、聖天堂の建立や青空賭博が行われていたことと、農耕作業歌が採られていること。そして何よりもすでに学説として歌垣歌と認められている歌が存在していることからしても、恐らくは足柄峠のどこかしらで万葉期やそれ以前にも、歌垣が行われていたであろうことは間違いないのではないか。 ...そう私は考えています。 歌垣の慣わしと言いますか、お作法のようなものは先ず、多数の男女による合唱での歌の掛け合いから始まります。誰もが知っている地元の民謡を大勢で唱和し、やがてそれが個人詠へと移行します。個人対個人の歌の掛け合いは、次第に想う相手への寓意が込められるようになり、やがて互いの意思が確かめ合われたならば、2人連れ立って山の奥へと消えていく、といった処でしょうか。 「足柄の箱根の山に粟をまいて実ったというのに...。我々の恋は成就したと言うのに、逢わないのはおかしなことだ(#3364)」 この歌は「万葉集」の異本によれば、独立した民謡とされていますね。粟と逢うが懸詞となっていますが、表の歌意は足柄での焼畑農耕を詠んだものでしょう。当時、こういった山間部を切り拓いた場合、林を伐採して焼き、その後3〜4年の間に雑穀などを栽培。粟は大体2年目に栽培され、最後は蕎麦だったといいます。そして、また別の林を伐採し、それまでの畑は放棄されたんですね。こういう当時の風習を知っていると、粟と逢うの懸詞の可笑しさがよく判りますし、歌垣に於いて、最初の集団唱和の民謡であったことも頷けます。 余談になりますが足柄には「足柄馬子唄」という民謡が現在でも残っていると随分、昔に書名は失念してしまいましたけれど読んだことがあります。手元にコピーだけしかないのですが、曰くその歌詞には 「足柄峠に粟黍植えてよ、忍ぶ恋路の主さんによ、 とあるのだそうです。...万葉の時代に生まれた地元の民謡が、1000年以上も口伝で歌い継がれたものなのかも知れません。そっくりですから。 「足柄の麻万の小菅で作った菅枕を何故、枕にするのですか。この子よ、私の腕を枕にしなさい(#3369)」 こちらは個人詠に移行してからの掛け合いの歌でしょう。いやはや、ますらをぶりの万葉歌の中でも、本当に素朴で率直な東歌の真骨頂とも言える1首だと思います。 恋歌。当然ながら私も土地の力の導きで即詠したかったのは山々でしたが、残念ながら想うべき相手もなく。何となく口をついで出て来たのは、亡夫へのものと、歌そのものに対する恋歌でした。 あしがりの御坂越ゆればあが背子はあれ待ちぬらむ 天つ御空に 天の鳥船 遼川るか あれ手向けむ賀我比なればや花つ妻とて 遼川るか (於:足柄の御坂界隈) ちょうど足柄峠の少し手前、万葉の時代より「足柄の御坂」と呼ばれていた急勾配の辺りを通過している時に降りてきた拙歌たちですが、詠んでみて改めて不思議に感じた、というのか積年の疑問が表層に出て来た、というべきなのか...。 「万葉集」巻14の東歌に関しては、足柄だけでなく当然、筑波山の歌垣歌も採られています。 ...が、その全てが短歌だけなんですね。前述の通り、歌垣の慣わしからしても地元の農耕民謡は確実に唱和されていたはずで、そうなれば当然ですけれど歌体は短歌だけのはずが、ありません。掛け合いである以上、先ず片歌は確実にあったでしょうし、長歌もあったでしょう。さらには韻律などない自由律のものだってあっておかしくありません。なのに、それが「万葉集」にはないのです。 ここに「万葉集」というものを編纂した人物たちの思惑が見えるように思います。 |
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