しながとりあはゆ・後拾遺

 この国に、そのために最初に来たのは4年前の7月。様々に変わる生活の中で、紀行文を書くことも、謡うことも、旅することすらも、叶わなくなっている自身に対しもう一度。もう一度、謡いたい。もう一度書きたい、というあの懐かしい感触が、水底に生まれた泡のように、ちいさくちいさく揺れながら湧いて来たのは多分、1ヵ月くらい前だったと思います。
 ほんの30枚ほど、書いただけで止まっている紀行文。何だか、自分がとても大切なものを置き去りにしてしまっているような、思い出したいのに思い出せない曲の歌詞のような、そんなもどかしさに、ふと車にエンジンを掛けてしまっていました。とにかく先ずは、もう一度、安房へゆかなくては。...今朝のことです。

 正直、もう一度書くために、安房という国の感触をこの身体に降ろしたかっただけでした。安房の風を肌に感じて、安房の海の色を確かめて、空の匂いを嗅ぎたかった。それだけだったはずなのに、まさか出会えてしまうなんて...。
 慌てて車を停めたスーパーの駐車場で、思わずにはいられませんでした。
「ありがとう。ありがとう、しながとり安房。待っていてくれて、本当にありがとう...」

 きっかけは、道を間違えたことです。目指していたのは宮下と沓見の莫越山神社。アクアラインで千葉に上陸し、そのまま房総半島を西から東南へ、と突っ切るつもりで走っていたのですが、国道410号ではなく、少し行き過ぎて国道465号に入ってしまったんですね。
 ですが、
「今日の目的が目的だもの。そんなにキリキリしなくてもいいじゃない。のんびり行けたらそれで...」
 と地図だけ確認し、一旦海岸近くまで走ってから、国道410号に向かうべく、長狭街道を進んでいると、ある交差点名が目に飛び込んできました。

 主基○○○公園。...すぐに車を停めたくとも、後続車がいるのでそれも叶わず、そのまま進むと今度は主基交差点、との標識です。さらに少し進み、道傍のスーパーの駐車場へとハンドルを切ります。かつて自身が書いた「さゝなみのしがゆ・弐」の記述を、急いで携帯電話から確認しました。
 ...間違いありません。自身で書いています。曰く、安房は明治の主基斎田に卜定された国だ、と。ならば、さきほど通り過ぎた交差点の近くにきっと、きっと、あるはずです。そう、主基斎田址が、です。

 車を駐車場から出し、来た道を可能な限りゆっくりと戻ります。主基交差点を越え、さらに少し行った道路脇にあったのは、主基斉田址公園、と書かれた案内看板でした。それに習って左折すると広がっていたのは、のどかな田園風景。すでに刈り入れを済ませた一面の田圃です。
 そして、そんな拓けた景色の中にぽつん、と木々に囲まれた一画が。恐らくはあれが、そうなのでしょう。


 車を降りると、最初に襲ってきたのは音のない空。長狭街道から、そう離れてはいないので、車が行き交う音は、確かに聞こえています。ですが、まるでそれらの音をすでに雑草ばかりが生える田圃たちがすべて受け止め、吸い込んでしまっているかのような、穏やかな静けさ。聞こえるのは自身の靴音、衣擦れ、そして息。
 見渡す限り、人間はわたししかいないという空間に最後に身をおいたのは何時以来になるでしょうか。晩秋から初冬へ、と世界全体がゆっくり進む真昼、かつて何度も覚えていたあの“理由の解らない懐かしさ”が込み上げてきて、それすらも懐かしく。
「ああ、戻ってきたんだ。帰って、来られたんだ...」
 そう、漏れてしまった声までも、田圃たちに包まれ、吸い込まれてゆきます。

 主基斎田。自作より引きます。

| 斎田。言葉としての意味は、大嘗祭(天皇の即位後、最初の新嘗祭)に使用される新
|穀を献上することを卜定された田、となりますか。悠紀と主基の2つあって、京都以
|東以南を悠紀の地方、京都以西以北を主基の地方、としていたと思います。

| 明治では悠紀に甲斐国、主基に安房国が卜定され、大正のときは悠紀の地方に愛
|知県、主基の地方が香川県。昭和の悠紀がここ、滋賀県は御上神社正面。主基は福岡
|だったと記憶していますが。...平成は悠紀が秋田、主基が大分。
                       遼川るか「さゝなみのしがゆ・弐」


 続けるならば、明治以前は宇多天皇の大嘗祭よりずっと、悠紀が近江国、主基が丹波国と備中国の交互で固定(例外は冷泉天皇の播磨国)されていて、卜定していたのはそれぞれの国の、どの都か、という点のみでした。それが明治期以降、現在の様式に変更。
 よって事実上、首都圏からほど近い斎田址は、甲斐か安房にしかない、と言ってしまっていいと思います。因みに甲斐の悠紀斎田は、現在の甲府市内です。

 ...平安中期以前でいえば、元明期と元正期の悠紀が遠江国。ですが、流石に現代の自治体区分だと静岡県とは言え、実質的には静岡の西側、愛知寄りです。往時は、東から伊豆国、駿河国、そして遠江国、と3つの国に分かれていたくらいで、遠江国は、浜名湖を中心とする国でしたから、首都圏とは言いがたいのではないか、と。
 また、調べた範囲では、肝心の斎田が遠江国の何処だったかも、全く解っていませんね、残念ながら。


 田圃の中に設えられた一画。案内板には、主基斉田址公園の文字。ぐるり、と取り囲む木々の真ん中には、記念碑が高く聳えます。そして相変わらず音が、いない...。

 天地に 
 おほみたからのわざあれば 
 いざ謡はむや斎ひ言
 唱ふ唱へよ
 穂に田にも
 斎つ陸田種子斎つ稲に
 祈ひ祷ひ祀り祓ひては
 いついつなほし幸はふを
 斎つ田由機須機
 高照らす日に地めづられ
 めづられば芽萌え出づる
 久方の雨いや降れば芽のゑむ
 いよよいよよか
 いやましに
 いやさかはえに
 いやましにませ 

 弥日異にまされ斎つ稲あきづしまやまとの国になほましにませ  遼川るか
 (於:安房国主基斉田址)


 「さゝなみのしがゆ・弐」でも書きましたが、上代文学を嗜好してはいても、基本的にわたしは決して皇国史観に傾倒している人間ではありません。なので、天皇即位に際しての大嘗祭云々についても、だがらどうだ、という感慨があるわけではないのですが、それでも、人が生きていく以上、食べるという行為は不可欠。
 突き詰めてしまうなら、政治というものは、ただ飢えることなく食べられることを願い、求める、1つの形に過ぎない、と思っていますし、その為に人々が腐心し、悩み、挑み、続けた様は、それこそが人間本来の姿。

 その現れの1つとしてある、悠紀と主基の斎田には、込み上げてきてしまうものがあります。稲や稲穂を見るだけで、理由も判らない涙が溢れてしまうことも。来たことなどない場所なのに、どうしても拭い去れない懐かしさに突き動かされ、叫びたくなってしまうことも。
 すべては血が負う記憶なのだ、と。土と空が湛える、時間の堆積なのだ、と。そう思うしかない、ということはそれでも確実にあるのだ、と。それだけを思い、満たされて、一面の田圃に一礼をします。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 主基斎田もそうなのですが、安房国が授けてくれた、思っても見なかった出会いがもう1つ。安房国分寺跡です。
 すでにご紹介していますが、改めてこの安房国が辿った経緯をお話しましょう。そもそも上古に於いて、現在の千葉県内に相当する土地には、上総国と下総国が置かれていました。安房・長狭・朝夷・平群などの郡はそれまで、すべて上総国に含まれていたんですね。そこに下りたのが、この詔です。

|乙未、越前国の羽咋・能登・鳳至・珠洲の四郡を割きて始めて能登国を置く。上総国の
|平群・安房・朝夷・長狹の四郡を割きて安房国を置く。陸奥国の石城・標葉・行方・宇太
|曰理と常陸国の菊多との六郡を割きて石城国を置く。白河・石背・会津・安積・信夫の
|五郡を割きて石背国を置く。常陸国の多珂郡の郷二百一十烟を割きて名けて菊多郡
|と曰ひて石城国に属く。
             「続日本紀 巻8 元正天皇 養老2年(718年)5月2日」再引用


 上総国から平群・安房・朝夷・長狹ら、4郡を分割して安房という国を置け、と。けれども、その20数年後、詔は覆されます。聖武が大きな国策を次々発布していた時期で、ここ・安房から遠い大和では、少しずつ天平の迷走が始まっていました。

|十二月丙戌、外従五位下秦前大魚を参河守とす。外従五位下馬史比奈麻呂を甲斐守。
|外従五位下紀朝臣廣名を上総守。外従五位下守部連牛養を下総守。従五位下阿倍朝
|臣子嶋を肥後守。安房国を上総国に并せ、能登国を越中国に并す。
           「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平13年(741年)12月10日」再引用


 再び安房が、国として復帰したのは、その15年後。これ以後は、特に大きな変化もなく、時代は平安・そして鎌倉へと進みます。

|乙卯、勅して曰はく、
|「頃者、上下れる諸使、惣て駅家に附ること、理に於て穏にあらず。亦、駅子を苦しめ
|む。今より以後、為ら令に依るべし。その能登・安房・和泉等の国は旧に依りて分ち立
|てよ」
| とのたまふ。
          「続日本紀 巻20 孝謙天皇 天平宝字元年(757年)5月8日」再引用


 ですが、前述しているように天平期、聖武の迷走は続きました。相次ぐ飢饉や疫病の流行、暴動・反乱などへの国策としての対応だったわけですが、恭仁や難波、紫香楽などの宮の造営とそれに付随する、橋や道路の整備。世に言う盧舍那仏、つまりは奈良の大仏造営。それらに先駆けて行われた大規模な行幸たち、などなど。
 中でも、地方各国にも大きな影響を及ぼしたのが、有名なこちら。

|乙巳、詔して曰はく、
|「朕、薄徳を以て忝くも重き任を承けたまはる。政化弘まらず、寤寐に多く慚づ。古の
|明主は、皆光業を能くしき。国泰く人楽しび、災除り福至りき。何なる政化を修めて
|か、能くこのこの道に臻らむ。頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集りて、
|唯労きて己を罪へり。是を以て、広く蒼生の為に遍く景福を求めむ。故に、前年に使
|を馳せて、天下の神宮を増し飾りき。去歳は普く天下をして釈迦牟尼仏尊像の高さ
|一丈六尺なる各一鋪を造らしめ、并せて大般若経各一部を写さしめたり。今春より
|已來、秋稼に至るまで、風雨順序ひ、五穀豊かに穰らむ。此れ乃ち、誠を徴して願を啓
|くこと、霊◆荅ふるが如し、載ち惶り載ち懼ぢて、自ら寧きこと無し。経を案ふるに
|云はく、
|『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し、恭敬供養し、流通せむときには、我
|ら四王、常に来りて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめむ。憂愁・疾疫をも亦除差
|せしめむ。所願心に遂げて、恒に生歓喜を生ぜしめむ』
| といへり。天下の諸国をして各七重塔一区を敬ひ造らしめ、并せて金光明最勝王
|経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。朕また別に擬りて、金字の金光明最勝王経
|を写し、搭毎に各一部を置かしめむ。冀はくは、聖法の盛、天地とと与に永く流り、
|擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必
|ず好き処を択ひて、実に久かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠く
|は、衆を労はして帰集することを欲はず。国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清
|を尽すべし。近く諸天に感け、臨護を庶幾ふ。遐邇に布れ告げて、朕が意を知らし
|めよ。また、毎国の僧寺に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺は、必
|が廿僧有らしめよ。その寺の名は金光明四天王護国の寺とせよ。尼寺は一十尼。そ
|の名は法華滅罪の寺とせよ。両寺は相去りて、教戒を受くべし。若し闕くること有
|らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月の八日に必ず最勝王経を転読すべし。月の
|半に至る毎に戒羯磨を誦せよ。毎月の六齋日には、公私ともに漁猟殺生すること得
|ざれ。国司等、恒に検校を加ふべし」
| とのたまふ。
             「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平13年(741年)3月24日」
                      ※◆は貝偏に兄の旁の表記です。


 はい、国分寺と国分尼寺建立の詔です。そしてこれ以後、諸国は約20年をかけて国分寺・国分尼寺を造営していったわけですが、注目すべきは、安房国が上総に併合されたり、また分離独立した流れとの時系列でしょう。

 718年(養老02年)05月02日    安房国成立

 741年(天平13年)03月24日    国分寺・国分尼寺建立の詔

 741年(天平13年)12月10日    安房、上総国に併合

 757年(天平宝字元年)05月08日  安房国再成立

 760年前後(天平宝字年間)    各地で国分寺・国分尼寺完成

 つまり、国分寺・国分尼寺建立の詔の約10ヶ月に、安房はそもそも国ではなくなり、それから時は流れて15年後。再び国として成立した頃には各地で、恐らくは早い国ではすでに、国分寺・国分尼寺が完成していた、ということなんですが。
 そんなわけで、わたし自身は安房に国分寺はない、と最初から思い込んでしまっていました。調べようとも、探そうともしていませんでしたね。


 いや実際、復元されている上総国分尼寺などを思うと、詔発布1年弱で国ではなくなる=造営の義務を負う必要がなくなってもなお、そのまま造営し続けたとはとてもとても...。かかる資金・人手・資材などだって莫大だったことでしょうし、何よりそれを監督・指揮・遂行する役人の配置だって、変わってしまったはずですから。
 万葉集に採られている、仏教の影響が見られるやり取りを引きます。

|題詞:戯れに僧を嗤ふ歌1首
|法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ
                        作者未詳「万葉集 巻16-3846」

|題詞:法師の報ふる歌1首
|壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ
                        作者未詳「万葉集 巻16-3846」


 「坊さんたちの(剃髪した顔に残る)杭のように伸びた髭に馬を繋いでやったよ。そんなに引っ張ってやんなさんなよ、坊さんが我慢しているからさ」
「檀家さんや、そんなこと言うんじゃないよ。あんたたちだって、里長が課役を強制したら、我慢しなくちゃならないんだから」
 かなりの意訳になりますけれど、こんなような戯れ歌の応酬です。...すみません、これじゃあ仏教の影響というよりは、当時の租税に対する風刺になってしまっていますか。ただ、底流しているのは、神職とは違い当時の僧侶というものがかなり市井の人々にとっては親しみやすい、と言いますか、ひれ伏すような存在ではなかったこと、手繰れると思います。もちろん、これは少なく見積もっても畿内のものなのでしょうけれども。

 続いて、こんな歌もご紹介します。

|題詞:池田朝臣の大神朝臣奥守を嗤ふ歌一首[池田朝臣の名は忘失せり]
|寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ
                        池田朝臣「万葉集 巻16-3840」

|題詞:大神朝臣奥守の報へて嗤ふ歌一首
|仏造るま朱足らずは水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ
                      大神朝臣奥守「万葉集 巻16-3841」


 「寺々にいる女餓鬼たちが言うことには、大神の男餓鬼を夫にして子どもを産みたいそうだよ」
「大仏を造る水銀が足りないのなら、水が溜まりそうなくらい低い池田朝臣の鼻の上を掘ればいいよ」
 やり取りそのものは、互いの容貌に対する皮肉をたっぷり込めたじゃれ合いなのでしょう。餓鬼は、仁王像や四天王像の足元に踏みつけられて、苦悶の表情を浮かべている、あの餓鬼のこと。きっと、大神朝臣は餓鬼のように、痩せ細っていたのでしょうね。だから、そんなじゃ女餓鬼に狙われちゃうじゃないの、とからかったのでしょう。それに対し大神朝臣は、池田朝臣の低い鼻をからかい返しました。

 ですが、それでも微かに滲んでしまうのは、天平の歪。大仏の造営に水銀は不可欠だったわけで、それが足りないならば、と戯れ歌に即座に詠み込めてしまうほど、少なくとも官人たちの間には、水銀の発掘・確保に四苦八苦している朝廷の内情が、知れ渡っていたからでしょう。...しかも、大仏云々を謡っているのは、よりによって大神氏です。大神、すなわち三輪山を祀る大神神社系の氏族ですからね。それはそれは、含みもきっとあったことではないか、と。
 いずれにしても、人々が安らかに暮らせることだけを望み、願った聖武の政策は、けれどもそれによって多くの人々に労苦と我慢を強いることになってしまっていた時代、それが天平です。

 宮下と沓見の莫越山神社を参拝した後、国道128号で一気に内房側へ出ようとしていました。館山まで出て、そこから洲崎神社の参拝へ、と。
 お天気のいい日。ついつい眠くなってしまいがちな午後です。思えば、これまでの安房訪問時は、基本的にほぼ常に海岸線近くを周っていたので、主基斎田址の長狭街道もそうですが、この国道128号のように、外房と内房を繋ぐ内陸部の道は、そもそもそういう目で走ったことがなかった事実を、自覚していませんでした。

 日曜日の国道は交通量も多く、あまりスピードが出せません。といって、海岸部のように目を奪われる景色も少なく、ただぼんやりとハンドルを握っていたのですけれど、自身の左側を流れていった看板に、再び車を停めたくなったのは、もう館山駅まで1kmを切った地点。安房国分寺の案内板です。
 ...一瞬、理解が出来ませんでした。主基斎田址のように、ただノーマークのポイントに偶然、辿り着いてしまった、というだけではありません。
「安房にあるの、国分寺が...?」

 たまたま道路が二股に分かれていたので、とりあえず国道から逸れて脇道へ逃れます。けれども、もう頭の中は軽いパニックを起こしていて、何が何だかよく解りません。脳裏に浮かんでは流れ、消えてゆく続日本紀の記述の断片と、年号という数字の羅列たち。
 いや、それだけは済みません。天平、それはこの国の歴史に於いて有数の、世界への窓が大きく開け放たれていた時代。国際都市として栄え、誇り、その一方で足元には暗い、暗すぎる影が不気味に広がってもいた平城京。深く、濃く、刻まれた光と闇。さんざめく人々の声と歌と花。朱雀門の朱色、哀しみ、狂気、欲、策謀、救世への願い、祈り、祈り、祈り...。


 「どうして? どうして...」
 心のどこかで、安房とは切り離してしまっていた、天平のイメージが次々と流れ込んできます。それは、ここまでに訪ねて周ったからこそ形になっていた、安房国の印象とは、あまりにも遠いものたちで、その重みが自身の身体にずしり、と降りてしまっていました。
 脇道を少し戻り、幾つかの路地を通り過ぎます。そして気づけば現代の安房国分寺、正式名・真言宗日色山国分寺の山門前に出ていました。


 さらに驚いたのは、真言宗日色山国分寺と彫られた石塔の手前に、千葉県指定史跡 安房国分寺跡、と。
「あるんだ、あったんだ...」
 何がそこまで受け入れ難いのでしょうか。これまでに作り上げてきた素朴で、それでも土に、海に生きてゆくことを選んだ人々の躍動。祖神を祀り、播くことと殖やすこと。育てることと獲ることと、そして何より作ること。そういった生命が本来、宿すべくして宿しているぬくもり、大らかさ、朗らかさ、などと一線を画すどろり、とした影に浸食されてゆくような、この感触なのか。
 あるいは、そんな一面だけしか見ていなかった、見ようともしていなかった、以前のわたし自身なのか。よく、解りません。

 真言宗日色山国分寺横に広がる空間を歩いてみます。案内には古瓦が多数、出土している旨、書かれていましたが、広さ自体は各地の国分寺跡と比較すると、意外などの狭さです。内容も金堂の基壇こそ、確かに発掘されていますが、いわゆる伽藍の跡はありません。礎石らしきものも見つかっていないようで、ついきっきまでの困惑が、呆気ないほどあっさりと引いてしまいました。






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